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中国史

1850年代の清王朝 太平天国の乱とアロー戦争

 香港近くの広東省で宗教反乱である太平天国の乱がおきる。江南の南京を首都に独自政府を樹立した。太平天国の乱で混乱中の清王朝に対して、イギリス・フランス連合軍がアロー戦争(第二次アヘン戦争)を仕掛ける。清王朝は敗北し、ロシア帝国を仲介して北京条約を締結する。

太平天国 が南京に政府を作る

 50年ごろの清国内は、アヘン戦争の賠償金や戦費のため重税が課され、多くの秘密組織(結社)が組織された。これらの秘密組織は中国各地で反乱を起こしていた。その中で一番大規模なものは、香港周辺の広東省太平天国であった。指導者は、洪秀全で、キリスト教をベースにして、儒教を攻撃対象とし、民間信仰の偶像を次々破壊した。51年太平天国は挙兵。53年長江流域まで勢力圏を広げ、南京を陥落。南京政府を作った。彼らは南京を天京と呼んだ。当時の広東は、近くの香港島がイギリスに奪われ、アヘン中毒者が多くいた。

 太平天国は、江南(中国の南半分)の大部分を制圧した。清王朝は、当初正規軍を派遣した。しかし、鎮圧することができなかった。南部の漢民族の知識層は、独自に軍隊を編成して太平天国の乱の鎮圧へ向った。その代表は曽国藩である。この功績により曽国藩などの漢民族知識層は、清王朝の高官につくようになった。

イギリス・フランス連合軍が
アロー戦争を起こす。

 太平天国の乱で混乱の最中、イギリスは、56年、ナポレオン三世のフランスとともに清王朝に対し、再度出兵を行った。アロー戦争(第二次アヘン戦争)である。
 当時のヨーロッパは56年にクリミア戦争終結したばかりで、一時的な安定期に入っていた。しかし、開戦翌年57年、ヨーロッパ各国は経済恐慌が起っていた。のためアジア・アフリカ市場への進出が各国の政策課題となった。クリミア戦争後の平和と恐慌による世論の形成が、アロー戦争を引き起こした。イギリスは、ヴィクトリア女王の黄金期で、2大政党制が確立していた。51年には世界最初の万国博覧会を開催した。当時の首相はホイッグ党(のちの自由党)で外交手腕の高いパーマストンであった。パーマストンは、58年にはインドのムガル帝国を滅亡し、イギリス領とした。フランスは52年に皇帝になったナポレオン三世の時代で、開戦前年の55年にはパリ万国博覧会を開催。アロー戦争が終結するとベトナム、メキシコなどに出兵するなど対外戦争を繰り返した。

 イギリス・フランス連合軍は、首都北京近くの天津港に迫り、58年天津条約を締結。アロー戦争の敗戦は日本の徳川幕府にも伝わり、徳川幕府は同じ58年日米修好通商条約を締結した。しかし、清王朝は、批准を拒否しイギリス施設の入京を武力で阻止。そのためイギリス・フランス両軍は再度出兵。北京を陥落させる。60年、ロシアの仲介で停戦。北京条約を締結する。

北京条約の内容は

 北京条約では、外国公使の北京駐在。天津など11港開港。外国人の中国内地の旅行の自由。キリスト教布教の自由を認めた。外国公使の北京駐在により、清王朝ははじめて異国との対等外交(朝貢以外の外交をみとめた)ことになった。また、開港した11港の大部分は長江流域であり、19世紀初頭には、長江流域はイギリスの勢力圏になる。また、北京近くの天津港開港や外国公使の北京駐在は、北京で働く中央官僚にも影響を与え、漢人官僚を中心に危機感を感じ、洋務運動のきっかけになった。ちなみに、解禁されたキリスト教布教は、雍正帝が18世紀(1706年)に禁止したものである。

ロシア ウラジオストークをえる。

 一方で、ロシアでは、天津条約を締結した58年にアイグン条約を締結し、中国東北部を一部割譲した。また、ロシアが仲介した60年北京条約では、沿海州中国東北部日本海沿岸)を割譲した。当時のロシアは、56年のクリミア戦争の敗戦で地中海への入り口である黒海の勢力圏を失った。そのため、太平洋岸の不凍港獲得が政治課題であった。ロシアは沿海州を獲得したことで日本海不凍港ウラジオストーク日米修好通商条約で開港した新潟の対岸)を得た。しかし、太平洋に出るには日本列島のどこかを横断せざるを得なく、これは明治新政府に脅威を与えた。一方、清王朝は、これにより日本海ルートを失った。

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7世紀の唐王朝 国際色豊かな長安

7世紀、日本は飛鳥時代に当たる。
このころ、中国は、隋王朝が滅亡し、唐王朝が成立した。唐王朝は、科挙を行う一方で、門閥貴族を優遇した。都の長安は、ペルシア人や日本人も闊歩し、国際都市になっていた。唐王朝期の文化も国際文化豊かな文化となった。

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1880年代の清王朝 フランスにベトナムを奪われる

 1880年代の清王朝は、3つの対外戦争の危機に瀕していた。1つ目は、ロシア帝国中央アジアをめぐり対立していた。2つ目はフランスと東南アジアのベトナムの宗主権をめぐる対立。3つ目は、日本と朝鮮半島の宗主権をめぐる対立であった。ロシアとは、イリ条約で、日本とは天津条約で平和的に解決できたが、フランスとは清仏戦争に発展。敗戦により、ベトナムの宗主権を失った。一方、清王朝内部は、反キリスト教運動が盛んになった。

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14世紀の中国(明王朝) 漢民族の王朝の復活

 14世紀、日本では鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の動乱期に入った。世界各地で自然災害や疫病が多発した。その代表例が

 中国は、モンゴル民族の元王朝が支配していた。しかし、中国南部で漢民族が反乱。漢民族の明王朝が成立した。

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1930年代の中華民国 満州国と日中戦争

 1930年の中国は、中華民国蒋介石の国民党が権力を握っていた。31年、中国南部で毛沢東共産党政府を成立させた。中国東北部では、31年満州事変が勃発。翌32年には日本軍の支援の下、満州国が独立。当初、国民党政府は共産党政府の攻撃を重視した。しかし、36年西安事件をきっかけに国民党と共産党が和解。共同した日本と戦うようになる。

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16世紀後半の中国 明王朝、豊臣秀吉に攻められる

北虜南倭

 16世紀後半、明王朝は、風前の灯火であった。北からは騎馬民族が侵攻。南では後期倭寇による闇貿易が横行した。この時代に入ると、ポルトガルやスペインも参加するようになった。明王朝は、ポルトガルにマカオの居住権を与えた。

貿易の自由化

 68年、張居正が内閣大学士(15世紀前半永楽帝が作った役職)に就任。海禁政策(14世紀、洪武帝が実施)を停止した。これにより、江南の闇貿易は合法化された。このころになると、中国の貿易商人の中には、東南アジアへ移住するものもあらわれる。この結果、東南アジアに中国人町が形成され始める。北方騎馬民族のアルタン=ハンと和議を結び交易所を開設した。

銀の流入と税制改革(一条鞭法)

 この時代は、日本の石見銀山(日本銀)やスペイン領アメリカ大陸の銀(メキシコ銀)が大きな輸入品となった。一方輸出品は生糸や陶磁器であった。景徳鎮(けいとくちん)は陶磁器の代表例である。
 銀の流入に伴い税制も変更し、唐代後期の8世紀から続いていた両税法から税や賦役が銀での納付に統一された(一条鞭法)。また、生糸や陶磁器が売れるようになると上海などの長江下流域では、工業が盛んになり、かつての穀倉地帯は綿花や桑の栽培に変った。その結果、コメの生産拠点は長江の中流域に変った。また、銀の流入は、農民の貧富の差の拡大をもたらした。そのため、小作料引き下げを求める農民闘争が盛んになった。そのため、江南の地主層は武装化した。武装化した地主層は、17世紀、明王朝を滅亡させる。
 農民の貧富の差の拡大は思想にも反映された。儒教では、王陽明が活躍。知行合一に代表される陽明学がさかんになった。陽明学は江戸時代に日本に伝わる。陽明学者としては大塩平八郎が有名だが、吉田松陰を通して幕末の志士にも伝わり、明治維新を思想面で支えた。

豊臣秀吉の朝鮮出兵

 16世紀後半、日本は豊臣秀吉に統一されると92年朝鮮半島の李氏朝鮮へ出兵した。明王朝は李氏朝鮮に対し援軍をおくった。98年日本で豊臣秀吉が病死すると、撤兵した。
 しかし、明王朝は、朝鮮出兵や貧富の格差により頻発する反乱で17世紀に入ると間もなく滅亡した。