7世紀の唐王朝 国際色豊かな長安

7世紀、日本は飛鳥時代に当たる。
このころ、中国は、隋王朝が滅亡し、唐王朝が成立した。唐王朝は、科挙を行う一方で、門閥貴族を優遇した。都の長安は、ペルシア人や日本人も闊歩し、国際都市になっていた。唐王朝期の文化も国際文化豊かな文化となった。

女性皇帝 則天武后

 690年、則天武后が即位。初の女帝となる。則天武后は、旧貴族ではなく科挙官僚を積極的に採用した。
 ちなみにチベットが統一されたのこのころである。

唐王朝の成立

618年成立したのが唐王朝である。
対外政策では、別の北方騎馬民族トルコ系の突厥を服属。東では、朝鮮の新羅と同盟を結び、日本・百済連合軍を白村江の戦いでやぶり、次いで隋を苦しめた女真族高句麗を滅ぼした。西では、シルクロード中央アジアまで勢力を伸ばした。
唐王朝は、征服地に都護府を置いたが、異民族の自治は認めていた。
内政では、隋の統治システムも継続した。法治主義をとった。律令制である。農業政策は、隋と同じ均田制をとり、人事政策では、科挙を継続した。

南朝の門閥貴族への配慮

唐王朝は、隋王朝とは異なり南朝門閥貴族に配慮した。門閥貴族には均田制は適用されず、広大な土地所有を認められた。(荘園制)。また、政治面でも、門閥貴族のために門下省を設置。勅書の審査権を与えた。

国際都市 長安

 このころ、イランのササン朝ペルシアが滅亡。多くのペルシア人難民が唐王朝に入る。景教キリスト教ネストリウス派)やゾロアスター教などイスラム教以前の中東の宗教が流入した。また、日本の遣唐使など朝貢使節や留学生が多く長安を訪れ、長安は国際色豊かな都市となった。

隋王朝の滅亡

 隋王朝では、04年、2代目煬帝が即位した。彼は、長江~黄河~北京(万里の長城)までの大運河の建設や女真族の先祖とされる高句麗北朝鮮)遠征を行った。日本の聖徳太子の遣隋使が派遣されたのもこの時代である。
 しかし、高句麗遠征は失敗。大規模土木工事や高句麗遠征で農民は疲弊。18年、農民反乱が相次ぎ、わずか45年で隋王朝は滅亡した。
 ちなみに、この黄河と大運河の交点が開封と呼ばれ、大商業都市になる。

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