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フランス史

1850年代のフランス ナポレオン3世とクリミア戦争

 1850年代のフランスは、ナポレオン3世の第二帝政の時代である。その代表格の戦争が、クリミア戦争である。ナポレオン3世は、50年代世界各地で戦争を展開した。

英仏通商条約

 60年、清王朝は天津条約の批准を拒否した。英仏両軍は再び軍艦を中国北部の天津港へ向かわせた。清王朝はロシア皇帝アレクサンドル1世を仲介役にして北京条約を締結した。北京条約は、天津条約よりも英仏に有利なものとなった。また、清王朝はロシア帝国にウラジオストーク(沿海州)を割譲した。日本政府は、58年の日米修好通商条約で開港を約束した新潟の開港を遅らせた。

 北京条約を締結した60年、フランスのナポレオン3世とイギリスのパーマストン首相は、英仏通商条約を締結した。これにより、フランスはイギリスへ農産物の輸出量を拡大させた。一方で工業は衰退した。フランスの資本家は国内に投資せず、海外投資を積極的に進めるようになる。その中心が運河の建設であった。

 

イタリア統一戦争
(vsオーストリア)

 天津条約が締結された58年、ナポレオン3世は、サルディーニャ王国(のちのイタリア王国)の宰相カブールと密約を締結した。フランスは、イタリア統一戦争でサルディーニャ王国を支援する見返りに、南フランスのサヴォイアとニースをもらうことになった。

 イタリア統一戦争とは、北イタリアのオーストリア領をめぐるサルディーニャ王国とイタリアの戦争である。ちなみに、オーストリアは1815年のウィーン会議で北イタリアを併合した。

 同58年、レセップスがスエズ運河株式会社を設立。エジプトに地中海とインド洋を結ぶスエズ運河の建設を始めた。スエズ運河株式会社はフランス政府とエジプト政府が折半して出資して設立した。スエズ運河は69年に完成した。

 59年4月、サルディーニャ王国(のちのイタリア)が、オーストリアに開戦。イタリア統一戦争が始まった。しかし、59年7月、フランス皇帝ナポレオン3世、イタリア統一戦争でオーストリアと単独講和した。サルディーニャ王国のローマ教皇領併合を懸念したためである。

 北イタリアは、ロンバルディアがサルディーニャ王国領になったが、ヴェネツィアはオーストリアに残留した。

 サルディーニャ王国は、イタリア統一戦争後、プロイセンに接近した。1866年のプロイセン=オーストリア戦争でヴェネツィアを、1870年の普仏戦争で中部イタリアのローマ教皇領を併合した。   

 イタリア統一戦争では、スイスのデュナン氏が負傷兵の救護活動を行った。クリミア戦争でのナイチンゲールの活躍に心を打たれたからであるデュナン氏は1864年に国際赤十字条約を締結した。

アロー戦争(vs清王朝)

 ナポレオン3世は、クリミア戦争を終結させるとイギリスとともに清王朝との戦争を開始した。アロー戦争である。

 翌57年、ナポレオン3世は阮朝ベトナムを攻撃した。

 57年には、広州(香港周辺)を占領。広州の総督はイギリス領インドのカルカッタへ連行された。

 58年には、中国北部の天津港へ進軍した。それまで、ヨーロッパの戦争の舞台は江南地方に限られてきた。そのため、北京にいる高級官僚は危機意識が薄かった。しかし、中国北部の天津港が攻撃されると清王朝は降伏。天津条約(イギリス編を参照)を締結した。

 58年、フランスは、幕末日本(徳川政権)と日仏修好通商条約を締結した。

クリミア戦争(vsロシア)

 オスマン帝国は、フランス王室にイェルサレムの管理権を与えていた。しかし、フランス革命期にキリスト教が禁止され、それに伴い、イェルサレムの管理権を返還した。代わりにこの管理権を得たのがロシア帝国であった。

 ナポレオン3世は、オスマン帝国にイェルサレムの管理権を再度お願いした。オスマン帝国はこれを快諾した。それに怒りを感じたのがロシア帝国である。53年、ロシア皇帝ニコライ1世はオスマン帝国へ宣戦布告した。

 ナポレオン3世は、叔父のナポレオンと異なり、外交が巧みであった。とくに、イギリスのパーマストン首相と友好関係を築いていた。そのため、クリミア戦争はロシアVSオスマン国・西欧諸国連合軍という形になった。

 このころ、ヨーロッパの産業革命が急速に進んだ。ナポレオン3世は、クリミア戦争の最中の55年、パリ万国博覧会を開催した。この時期にフランスの鉄道網が整備された。パリ市街地も幹線道路が整備された。現在のパリの街並みはこの時に整備された。交通の便が良くなった一方、パリは攻め込みやすい都市となった。普仏戦争の敗北やパリコミューンの早期決着はこれが要因となった。

 55年、ロシア皇帝ニコライ1世が亡くなると、ロシアは降伏した。次期ロシア皇帝アレクサンドル2世をパリに迎えて講和会議を行った。56年、パリ条約が締結された。

 パリ条約では、オスマン帝国の領土の保全を認めるとともに40年のロンドン条約を再確認し、黒海の中立化を再確認した。

 ちなみに、イギリスのナイチンゲールが活躍したのがクリミア戦争である。 

第二帝政

 48年の2月革命(48年革命)で大統領になったナポレオン三世は、52年国民投票により皇帝になった。ナポレオン三世は、農民、資本家、労働者の利害の異なる勢力に支えられていた。
 英仏通商条約を締結し、自由貿易と国内産業育成に努めた。一方で、対外戦争を進めることで利害対立を外に向けさせた。
 インフラの整備や、労働立法の改正で、ナポレオン三世は、労働者の支持を得ていった。一方で、工業化を進めることで資本家の支持も得た。

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7世紀のフランク王国 イスラム教の成立とメロヴィング朝の衰退

7世紀、日本は飛鳥時代大化の改新が行われたころである。

 このころ世界では、預言者ムハンマドが神の啓示をうけた。イスラム教の始まりである。

 ヨーロッパでは、地中海を支配していたビザンツ帝国が急速に衰退。代わりに台頭してきたのがフランク王国などのゲルマン民族である。

イスラム教の成立

 7世紀最大の出来事は、イスラム教の成立である。イスラム教の拡大スピードはすさまじく、7世紀中に中東全域を席巻した。イスラム帝国の拡大は、6世紀の中東の2大帝国を衰退させた。トルコのビザンツ帝国とイランのササン朝ペルシアである。

 ササン朝ペルシアは、7世紀に滅亡。多くのペルシア人が東へ亡命した。唐の長安ペルシア人が多数生活し、日本の平城京(奈良)に渡ったものもいる。 

 10年 預言者ムハンマド、神の啓示を受ける。
 22年 預言者ムハンマド、メッカを追われメディナに移住(ヒジュラ
 30年 預言者ムハンマド、メッカを征服
 32年 預言者ムハンマド、亡くなる。正統カリフ時代に入る。
    正統カリフ時代に、ササン朝ペルシアが滅亡
    ビザンツ帝国も、シリア・エジプトを奪われる。
 61年 シリア系ウマイヤ朝成立
    スンナ派ウマイヤ朝支持)VS シーア派(反ウマイヤ朝)の内紛が起こる。
    これにより、イスラム帝国の拡大は一時休止する。

イスラム帝国拡大で
 ビザンツ帝国はピンチ

 ビザンツ帝国も、イスラム帝国の拡大により急速に衰退する。6世紀のビザンツ帝国は、ユスティアヌス帝の全盛期であった。地中海沿岸のゲルマン諸国を次々滅亡させ、地中海を再統一した。しかし、正統カリフ時代には、シリアやエジプトを失う。

 16年 西ゴート王国により、スペインから撤退
 26年 アヴァール人が首都コンスタンチノーブル包囲
 36年 イスラム軍(正統カリフ)に敗北。シリアを奪われる。
     この時シリア総督になったのがウマイヤ朝を開くウマイヤ家である。
 41年 イスラム軍(正統カリフ)により、穀倉地帯エジプトを失う
 74年 イスラム軍(ウマイヤ朝)、首都コンスタンチノーブル包囲

フランク王国(フランス)
王家メロヴィング家が衰退

 このころ、フランスを支配していたのは、フランク王国である。6世紀にはアルプス山脈以北(ドイツ・フランス)の全域を支配していた。

 フランク王国は、メロヴィング朝の時代である。しかし、分割相続で親族同士の対立が激化。フランク王家メロヴィング家は衰退していた。13年には、ロータル2世が内乱を鎮めたが、ロータル2世が亡くなるとまた対立は激化した。

 代わりに台頭したのが宮宰をつとめるカロリング家であった。宮宰は、フランク王国で最高位の役職で87年には宮宰ピピンが実権を握るようになる。

キリスト教とイタリア

 6世紀に西ローマ帝国が滅亡したイタリアの状況はどのようになっていたのだろうか。6世紀から7世紀にかけて様々な勢力によって分裂していた。

 北イタリアは、ビザンツ帝国から独立したランゴバルド王国。中央部は、東のラヴェンナ地方にビザンツ帝国の総督領が、西のローマにはローマ教皇領があった。それ以外も分裂していた。イタリアの南、北フリカのチュニジアは、7世紀末にイスラム勢力(ウマイヤ朝)に入った。

 フランク王国は8世紀にローマ教皇の要請に基づいて分裂状態のイタリアへ侵攻していく。

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フランス史

1880年代のフランス ベトナムとアルジェリア

 1880年代、日本では、明治政府は大日本帝国憲法を制定。国会が開設された。

 ヨーロッパは、ドイツのビスマルク外交によって平和が保たれていて、安心して植民地拡大を進めることができた。アフリカ=コンゴ会議でヨーロッパ列強はアフリカへ向った。

 フランスは、第三共和制の時代である。普仏戦争の敗北やパリ=コミューンの発生により70年代の不況に入った。そのため、海外市場に向かった。植民地拡大を進めていた。アジアでは、清王朝に勝利し、ベトナムを植民地化。アフリカでは、エジプトでの影響力を失い、アルジェリアを拠点に進めていくことになる。

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14世紀のフランス(カペー朝) 教皇のバビロン捕囚と百年戦争

14世紀、日本は鎌倉幕府が滅亡。南北朝の戦乱期に入った。
この時代、ヨーロッパは百年戦争と黒死病で暗黒な時代を迎えていた。フランスは、カペー朝が断絶。王位継承権をめぐりイングランドと百年戦争に入った。一方で、教皇バビロン捕囚を行い、ローマ教皇を失墜させた。

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1930年代のフランス(第三共和政)イギリス、ソ連、ドイツの3つ巴状態のヨーロッパ

 29年の世界大恐慌は32年にはフランスに波及した。フランスは保護貿易政策で乗り切った。当時のフランスは、左派が政権が握っていた。一方で、隣国ドイツではヒトラーが台頭。イギリスは、ソ連などの社会主義勢力の台頭を警戒してナチスドイツに友好的な態度をとった。イギリス、ドイツ、ソ連のパワーバランスの中で第2次世界大戦が始まった。

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16世紀後半のフランス ユグノー戦争でブルボン朝成立

フェリペ2世を撃退

 フランスでは、47年アンリ2世が即位。57年、スペインでフェリペ2世が即位すると、スペイン・イングランド連合軍がフランスへ侵攻。58年、フランスはイングランドに勝利。
 同58年、イングランドエリザベス1世女王が即位すると、フランスとイングランド・スペインは講和した。イングランドは大陸にあった唯一の領土カレーをフランスへ割譲した。

 当時スペインは、 神聖ローマ皇帝カール5世が引退。スペインと神聖ローマ帝国(ドイツ)の同君連合は解消された。しかし、スペインは新大陸のポトシ銀山から大量の銀を獲得していた。さらに、オランダや南イタリアを領有していた。そのため、16世紀後半もスペインは大国であり続けた。

 一方、イギリスは、フェリペ2世の妻、メアリ1世が治めていた。2人の間に子どもはなく、58年に亡くなる。イギリスを引き継いだのは異母妹のエリザベス1世であった。エリザベス1世が即位すると、スペインとの同盟は解消。フランスと講和した。

ユグノー戦争

ユグノー戦争勃発

 ユグノーとは、カルヴァン派のことである。カルヴァン派は商工業者を中心に普及した。アンリ2世は、ユグノーを弾圧。60年、シャルル9世が即位。幼い皇帝を母カトリーヌが支えた。62年、シャルル9世は、カルヴァン派を認める勅令を発する。これに対しカトリック教徒の諸侯が反発。ここにユグノー戦争が始まる。

カルヴァン派とは

 16世紀は、宗教改革の時代である。この時キリスト教に2つの宗派が誕生した。北ドイツのルター派とスイスのカルヴァン派である。ルター派は北ドイツの諸侯を中心に北海沿岸に信者を増やした。一方で、カルヴァン派はフランスを通じて西欧へ広まった

 カルヴァン派は、勤労や禁欲を奨励した。そのため、貯金も推奨した。そのため、商人を中心に広まった。フランスのカルヴァン派は、ユグノーと呼ばれた。しかし、カルヴァン派はオランダやイギリスへも広まった。

 当時、オランダは、スペイン領であった。オランダの領主はカルヴァン派にかなり寛容であった。カール5世時代もカルヴァン派は容認されていた。しかし、16世紀後半、フェリペ2世の時代へ移ると状況は一転した。フェリペ2世は、敬虔なカトリック教徒であった。そのため、プロテスタントの大弾圧を行った。これに反発したオランダ国民が起こしたのがオランダ独立戦争である。この戦争は17世紀前半までつづいた。

 一方、イングランドはエリザベス1世の時代である。イギリスはイギリス国教会制度を導入していた。しかし、その宗派は特に定まっていなかった。エリザベス1世時代はカルヴァン派とカトリック派が共存していた。しかし、17世紀に入ると状況は一変した。カトリックを信仰するスチュアート朝の時代に入った。カルヴァン派は各地へ亡命した。その一つが新大陸へ向ったピグリム=ファザーズである。そして、この対立がイギリス革命につながった。

サンバルテルミの大虐殺

 68年、オランダ独立戦争がはじまる。フランス国内の宗教対立は、カルヴァン派のオランダとカトリックのスペインの対立が相まって泥沼化した。72年、パリでカルヴァン派の大虐殺がおこなれた。サンバルテルミの虐殺である。ユグノー戦争の泥沼化でフランス全土は荒廃。

 フランスは、ユグノー戦争の影響で17世紀初頭に不況となった。同盟国のオスマン帝国もこの時期から衰退期に入り始めた。一方で、フランスの代わりに台頭したのが、イギリスとオランダである。この2国はアジア各国の植民地化を始めた。

ブルボン朝の成立でユグノー戦争が終わる

 74年、アンリ3世が即位。アンリ3世に後継者がいなかったため後継者争いが始まった。カトリック教徒のギース公アンリとユグノーブルボン家アンリである。81年、オランダ提督ウィレム1世は独立を宣言。84年、イングランドは、新大陸ヴァージニア植民地を開発。同84年、日本の遣欧使節団がスペイン国王フェリペ2世に謁見。このころ、パリはカトリック派が優勢であった。88年、フランス国王アンリ3世がカトリック側のギース公アンリを暗殺。しかし、89年、アンリ3世は熱狂的なカトリック教徒によって暗殺された。残ったブルボン家アンリがアンリ4世としてフランス国王になった。ブルボン朝の始まりである。 

ナントの王令で宗教の自由を認める

89年、アンリ4世が即位してブルボン朝が始まる。この200年後にフランス革命が勃発する。ただ、フランス国民の大部分はカトリック教徒である。そのため、93年アンリ4世ユグノーからカトリックへ改宗した。そして、93年、アンリ4世はナントの王令を出し、カルヴァン派を容認し、ユグノーを保護した。