1880年代、日本では、明治政府は大日本帝国憲法を制定。国会が開設された。
ヨーロッパは、ドイツのビスマルク外交によって平和が保たれていて、安心して植民地拡大を進めることができた。アフリカ=コンゴ会議でヨーロッパ列強はアフリカへ向った。
フランスは、第三共和制の時代である。普仏戦争の敗北やパリ=コミューンの発生により70年代の不況に入った。そのため、海外市場に向かった。植民地拡大を進めていた。アジアでは、清王朝に勝利し、ベトナムを植民地化。アフリカでは、エジプトでの影響力を失い、アルジェリアを拠点に進めていくことになる。
80年代のフランスとは
70年代の不況をうけて、植民地拡大へ向かう。
フランスは、フランス革命で小作人が大幅に減った。そのため都市労働者がそれほど多くない。そのため、工業化はあまり進まなかった。一方で、中産階級が多く、銀行の資本力が強い。このころ、エッフェル塔が完成した。また、パリとイスタンブール(オスマン帝国)を結ぶオリエント急行もこの時開業した。
70年代にパリ=コミューンを行った社会主義勢力は第二インターナショナルを結成した。
元陸軍大臣のブーランジェが右翼の支持を得てクーデターを起こすも失敗。
アジアの植民地化 ベトナム
80年当時のフランスは、ベトナム南部とカンボジアを植民地としていた。また、ベトナム北部の黒旗軍(劉永福)と戦闘状態にあった。
83年に北ベトナムに勝利し、植民地はベトナム全土とカンボジアに拡大した。これに対し、かつてのベトナムの宗主国が清王朝(中国)が待ったをかけた。85年、清仏戦争に勝利。87年フランス領インドシナが成立した。
また、このころから南太平洋の植民地化を開始。80年タヒチを植民地化した。
アフリカの植民地化 アルジェリア
当時のフランスは、1830年にオスマン帝国から奪ったアルジェリアを支配していた。フランスはこの国を起点にアフリカ植民地化を進める。一方で、スエズ運河を建設したエジプトは、イギリスのスエズ運河買収で次第に影響力を失っていた。
ベルリン条約に基づき、北ベトナムのチュニジアを保護国化。一方で、エジプトでウラービーの乱が発生。これによりエジプトはイギリスの植民地となる。85年、ベルリン=コンゴ会議でアフリカの植民地化についてのルールが定まる。
ヨーロッパ情勢 ビスマルク外交の平和
ビスマルク外交で協調体制が確立。フランスは孤立していたが、ヨーロッパ国内では大きな戦争も起きていない。81年、ビスマルク(ドイツ帝国)は、ベルリン会議(78年)で崩壊した三帝同盟(ドイツ・ロシア。オーストリア)を再建。82年、チュニジア問題を利用して三国同盟(ドイツ・イタリア・オーストリア)を結成。87年三帝同盟崩壊。ドイツ・ロシアで再保障条約を締結。しかし、88年ヴェルヘルム2世が即位。90年ビスマルクを罷免。その背景には、ドイツ帝国の工業国化が考えられる。ヴェルヘルム2世は、90年代以降植民地の再配分を求めて暴れまくる。
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