1850年代、日本は幕末。ペリーが東京湾(江戸湾)に来航したころである。
インドも、この時期に大転換期を迎えていた。インド大反乱が発生。これによりムガル帝国は滅亡。東インド会社も解散され、イギリスのインド直接統治が始まる。
14世紀、日本では鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の戦乱期に入った。この頃、世界ではモンゴル大帝国が衰退。ヨーロッパではペストが流行した。
そのころ、インドはデリー=スルタン朝の時代であった。ハルジー朝は全インドを統一した。その後、トゥグルク朝が長期政権が成立した。
このころも、モンゴル人の侵攻が続いた。前半はモンゴル4ハン国の一つチャガタイ=ハン国が侵攻した。14世紀末には中央アジアの帝国ディムール帝国の侵攻を受けた。
56年、北インドのムガル帝国でアクバル帝が誕生した。 アクバル帝が即位したとき、ムガル帝国はデリーの一地方政権に過ぎなかった。しかし、アクバル帝は遠征を繰り返し、ベンガル(バングラデシュ)、北インド、パキスタン、アフガンを治めるインド帝国になった。
ちなみに、インド全域を統一したのは、約100年後のアウラングゼーブ帝のころである。
アクバル帝は、軍事だけでなく内政面であも結果を残した。支配層を組織化し、官位制度を導入した。(マンサブダール制)。アクバル帝は中央集権的な政治を行った。一方で、検地を行った。新首都アグラを建設。デリーから遷都した。
ムガル帝国は、イスラム教の国である。しかし、インド人の多数はヒンドゥー教を信仰していた。そのため、アクバル帝は民衆の支持を得るためヒンドゥー教にやさしい政治をとった。
アクバル帝は、ヒンドゥー教の女性を后にむかえた。また、異教徒のみにかけていたシズヤ(人頭税)を廃止した。
これにより、イスラム教とインド古来の文化が融合。インド=イスラム文化がとうじょうした。ペルシアから伝来した細密画(ミニチュアール)をベースにしたムガル絵画はその一例である。
インドで、アクバルがヒンドゥー教とイスラム教の融合を進めていたころ。日本では、織田信長が宗教改革を行っていた。キリスト教の布教を認める一方で、延暦寺の焼き討ちを行った。
またヨーロッパでは16世紀の初頭にルターが「九十五か条の論題」を発表した。