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インド史

1850年代のムガル帝国 インド反乱とムガル帝国の滅亡

1850年代、日本は幕末。ペリーが東京湾江戸湾)に来航したころである。

 インドも、この時期に大転換期を迎えていた。インド大反乱が発生。これによりムガル帝国は滅亡。東インド会社も解散され、イギリスのインド直接統治が始まる。

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インド史

7世紀のインド 三蔵法師が見たヴァルダナ朝

7世紀、日本は飛鳥時代聖徳太子法隆寺を建立したころである。

 このころ、仏教のふるさとインドではヴァルダナ朝であった。ヴァルダナ朝には全盛期の唐王朝(中国)から多く僧侶が留学してきていた。今回から、古代インドの4王朝をみていきます。

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インド史

1880年代のインド ビルマ併合

1880年代、日本は明治時代。国会が開設されたころである。

 このころ、インドはイギリスの植民地であった。このころインドにも議会が成立した。インド国民会議である。また、東南アジアでは第三次ビルマ戦争が勃発した。

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インド史

14世紀のインド(デリースルタン朝)南インドの独立運動

 14世紀、日本では鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の戦乱期に入った。この頃、世界ではモンゴル大帝国が衰退。ヨーロッパではペストが流行した。

 そのころ、インドはデリー=スルタン朝の時代であった。ハルジー朝は全インドを統一した。その後、トゥグルク朝が長期政権が成立した。

 このころも、モンゴル人の侵攻が続いた。前半はモンゴル4ハン国の一つチャガタイ=ハン国が侵攻した。14世紀末には中央アジアの帝国ディムール帝国の侵攻を受けた。

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インド史

1930年代のインド ガンディの塩の行進と35年インド統治法

1930年代、世界大恐慌の真っただ中にあった。そのような中、ナチスドイツなどのファシズムソ連を中心とした共産主義勢力が台頭してきた。イギリスなどの旧勢力を交えて3すくみの状況で第二次世界大戦へ突入した。

 そのころ、インドはイギリスの植民地化にあった。ガンディら国民会議派を中心に自治権拡大を求めていた。

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16世紀後半のインド インド版織田信長 ムガル帝国

北インドの統一

  56年、北インドムガル帝国でアクバル帝が誕生した。 アクバル帝が即位したとき、ムガル帝国はデリーの一地方政権に過ぎなかった。しかし、アクバル帝は遠征を繰り返し、ベンガルバングラデシュ)、北インドパキスタン、アフガンを治めるインド帝国になった。

 ちなみに、インド全域を統一したのは、約100年後のアウラングゼーブ帝のころである。

内政面では検地を実施

 アクバル帝は、軍事だけでなく内政面であも結果を残した。支配層を組織化し、官位制度を導入した。(マンサブダール制)。アクバル帝は中央集権的な政治を行った。一方で、検地を行った。新首都アグラを建設。デリーから遷都した。

寛容な宗教政策

ムガル帝国は、イスラム教の国である。しかし、インド人の多数はヒンドゥー教を信仰していた。そのため、アクバル帝は民衆の支持を得るためヒンドゥー教にやさしい政治をとった。

 アクバル帝は、ヒンドゥー教の女性を后にむかえた。また、異教徒のみにかけていたシズヤ(人頭税)を廃止した。
 これにより、イスラム教とインド古来の文化が融合。インド=イスラム文化がとうじょうした。ペルシアから伝来した細密画(ミニチュアール)をベースにしたムガル絵画はその一例である。

16世紀は宗教改革の世紀である

 

インドで、アクバルがヒンドゥー教イスラム教の融合を進めていたころ。日本では、織田信長宗教改革を行っていた。キリスト教の布教を認める一方で、延暦寺の焼き討ちを行った。

 またヨーロッパでは16世紀の初頭にルターが「九十五か条の論題」を発表した。