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インド史

14世紀のインド(デリースルタン朝)南インドの独立運動

 14世紀、日本では鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の戦乱期に入った。この頃、世界ではモンゴル大帝国が衰退。ヨーロッパではペストが流行した。

 そのころ、インドはデリー=スルタン朝の時代であった。ハルジー朝は全インドを統一した。その後、トゥグルク朝が長期政権が成立した。

 このころも、モンゴル人の侵攻が続いた。前半はモンゴル4ハン国の一つチャガタイ=ハン国が侵攻した。14世紀末には中央アジアの帝国ディムール帝国の侵攻を受けた。

15世紀のインド

 デリー=スルタン朝は、13世紀から16世紀の前半までのイン度に成立したイスラム系の5王朝を指す。

 15世紀のインドは、デリー=スルタン朝が続いていた。一方で南アジアではヴィジャヤナガル王国などで分裂していた。また、明王朝永楽帝の使者やポルトガル人なども来航。16世紀の大航海時代へつながっていく。

 今回は、15世紀のデリー=スルタン朝の形成過程を見ていきます。

トゥグルク朝と南インドの独立

 20年代、元ハルジー朝の将軍。ハルジー朝の内紛に乗じて実権を握った。
 基本的には、ハルジー朝の政策を引き継いだ。

ティムールの登場により滅亡

 70年、隣国ペルシアがティムール朝が成立した。ティムールは分裂状態だった中央アジアチャガタイ=ハン国)と中東(イル=ハン国)を統一した。ティムールは98年、インドへ侵攻。一時デリーを占領した。これが原因で、15世紀初頭トゥグルク朝は滅亡した。

南インドのヴィジャヤナガル王国

 30年代後半に入ると、政治は乱れた。これにより、南インド地方政権が乱立した。
イスラム教のバフマン朝やヒンドゥー教のヴィジャヤナガル王国などである。

旅行家イブン=バットゥータ

 33年、旅行家イブン=バットゥータがトゥグルク朝を訪れた。イブン=バットゥータとは、モロッコ(アフリカ北西部でスペインの南)出身のイスラム教徒。のちに『三大陸周遊記』を発表。マルコ=ポーロの『東方見聞録』とともにアジアの情報をイスラム圏やキリスト教圏に広めた。これが16世紀の大航海時代につながる。

モンゴル国家の衰退

 20年代ハルジー朝を苦しめた中央アジアチャガタイ=ハン国モンゴル帝国の一つ。)30年代に入ると東西に分裂した。このため、トゥグルク朝は長期政権となった。14世紀末にティムールが中央アジアを統一するまで、インドはつかの間の平和を享受した。

ハルジー朝 ムガル帝国まで続く政治システムを構築

デリー=スルタン朝2番目の王朝。13世紀末に建国した。南インドのパーンディア朝を破り、全インドを統一した。パーンディア朝は、紀元前3世紀からあったタミル人国家。かつてはローマ帝国などとインド洋交易で栄えた。タミル人は、南インドスリランカで生活する民族。ヒンドゥー教を信仰している。仏教国のスリランカではタミル人問題といる人種問題が発生している。

 この時期、チャガタイ=ハン国が再三にわたりデリーへ侵攻している。これにより、20年にハルジー朝は衰退し滅亡した。

 税制改革も行われた。もともとシズヤは、異教徒に一律にかけられていた。しかし、ハルジー朝では所得に応じて三段階の税制を設けた。この税制は16世紀にムガル帝国のアクバル帝のシズヤ廃止まで有効とされた。また、地租の金納化もこの時期に始まった。

作成者: sekaishiotaku

初めまして、sekaishiotakuです。世界史好きの一般会社員です。よろしくお願いいたします。

「14世紀のインド(デリースルタン朝)南インドの独立運動」への1件の返信

[…]  ティムールは、14世紀後半に中央アジアに成立した国である。もとは、モンゴル4ハン国の一つであるチャガタイハン国から成立した。ティムールは、チャガタイハン国(中央アジア)とイルハン国(中東)を征服し、インド(デリースルタン朝)やロシア(キプチャクハン国)へも侵攻した。 […]

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