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イラン・ペルシャ史

1850年代のカジャール朝イラン クリミア戦争の裏側で

1850年代、日本はペリー来航で江戸幕府が大きく揺らいだ。しかし、世界全体の関心事は、これではない。クリミア戦争である。当時の2大帝国、イギリスVSロシアが最高潮に達した瞬間である。

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7世紀のイラン ササン朝の滅亡

 7世紀、日本は聖徳太子中大兄皇子らが活躍した飛鳥時代であった。

 そのころ、ペルシアではササン朝ペルシアが滅亡。イスラム勢力の支配下に入った。

 イスラム教は、7世紀初頭に始まった。当初小さな宗教集団であったが、この世紀でオリエントを統一する大帝国になった。

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1880年代のカジャール朝イラン アフガニスタンがイギリスの保護国に

1880年代、日本は大日本帝国憲法が制定され、黒海が開設されたころである。そのころ、イランはカジャール朝の時代である。中央アジアではイギリスとインドがグレートゲームを展開していた。

カジャール朝とは

 カジャール朝は、18世紀末アフシャール朝から独立してイランを統一したトルコ系遊牧民族の国家である。北のロシア帝国やイギリス(インドへ進出)に利権をばらまいたことでイラン国民の支持は低かった。

アフガン王国

第二次アフガン戦争

イランの東隣、アフガニスタンでは、第二次アフガン戦争が終結。第二次アフガン戦争に勝利したイギリス(イギリス領インド)は、アフガン王国から外交権を奪い、保護国とした。

 80年、アフガン王国で反乱。イギリス軍は反乱軍に敗北。イギリスはアフガン王国の直接統治をあきらめた。

その後のアフガン王国

 1918年、アフガン王国は第一次世界大戦で疲弊したイギリスに宣戦。第3次アフガン戦争が勃発。翌1919年、アフガン王国、第3次アフガン戦争に勝利。独立を回復した。

ロシア帝国の中央アジア進出

 アフガンの北東、中央アジアではトルキスタンがロシアの進出に抵抗していた。しかし、81年トルクメンがロシア軍に敗北。ロシアの中央アジア併合は完了した。この地域は、91年のソ連解体までロシアの勢力下になる。

ペルシア帝国銀行設立

 85年、カジャール朝ペルシアでは、イギリス資本によりペルシア帝国銀行を設立。カジャール朝ペルシアは、通貨発行権を認めた。また、89年には、同行へ石油採掘権を与えた。これにより、カジャール朝ペルシアは、イギリスに財政・金融を支配されるようになる。これが1891年のタバコボイコット運動につながる。

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14世紀のイラン(ティムール朝)モンゴル再興の夢

 14世紀、日本は鎌倉幕府が滅亡。南北朝の戦乱期に入る。世界的にも、ペストが流行、暗黒の中世を象徴する世紀であった。
 このころ、イランはモンゴル帝国の支配下にあった。14世紀のモンゴルは、分裂・衰退傾向にあった。1370年、ティムールが登場。中東、ペルシア、中央アジアは再統一された。

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16世紀のペルシア ペルシア版織田信長 サファヴィー朝アッバース1世

サファヴィー朝とは

 サファヴィー朝とは、16世紀初めにイラン北西部で成立したサファヴィー教団が建国した国である。現在のイランと同じシーア派(十二イマーム派)を国教とした。そのため、スンニ派のオスマン帝国(トルコ)やムガル帝国(インド)との抗争は絶えなかった。

軍事改革

 87年、アッバース朝の後継者争いを制して、アッバース1世が即位した。
 アッバース1世は、国王に即位すると軍事改革に当たった。特権階級のトルコ系騎兵軍団キジルバシュを弾圧した。これに抵抗するため、軍人奴隷を中心とした常備軍を整備した。
 この背景には、キジルバシュがオスマン帝国の常備軍イエニチェリに敗北したことにある。イエニチェリとは、キリスト教から改宗した常備軍で当時の最新兵器鉄砲を使用した。

イスファハーンは世界の半分

 アッバース1世は、新首都を建設した。これがイスファハーンである。アッバース1世は貿易を奨励。これにより、「イスファハーンは世界の半分」とよばれる大都市となった。

新興勢力イギリスとの支援

 アッバース1世の時代、イラク(バグダード)はオスマン帝国に奪われ、ペルシャ湾の要所ホラズム海峡はポルトガㇽが占領していた。

 アッバース1世はイギリス、オランダ、フランスとの同盟関係を結んだ。アッバース1世は、これらの国から最新壁っ鉄砲を輸入するとともに、貿易を奨励した。これらの国は、16世紀後半からアジアへ進出してきた国々である。