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2000年代の衆院選 小泉政権から民主党政権へ

09年08月 政権交代

リーマンショックと派遣社員

 08年9月、麻生政権が成立。臨時国会後、すぐに解散総選挙の予定であった。しかし、思わぬことが起きた。リーマンショックが起きたのである。これにより、景気が悪化。小泉政権時の派遣法改正で大規模な派遣切りが発生。その年の年末、野党の民主党は、年越し派遣村を設置。自民党政権を批判した。麻生政権も定額給付金で景気対策をしようとしたが、それでも改善しなかった。

 麻生政権は、任期満了(09年9月)が近づき解散へ踏み切った。公明党への配慮から都議選のある7月ではなく09年8月の解散とした。

 この頃、民主党は社民党と国民新党(亀井静香氏)と政策協定を結び連立政権の準備を始めた。

選挙結果 民主党政権へ

 民主党は、300議席に迫る大勝。政権交代を実現。鳩山政権が成立した。

選挙結果 自民党大敗

 自民党は、議席を半減する大敗。麻生総裁が辞任し、第一派閥の谷垣派の谷垣総裁が誕生した。

05年09月 郵政解散

郵政民営化

 03年参院選に敗北。安倍幹事長は退任。武部幹事長が就任した。小泉政権はこれに合わせて、郵政民営化モードにシフトした。経済財政政策担当大臣であった竹中大臣を郵政を管轄する総務大臣に就けた。この時、副大臣でだったのが後の菅首相である。

 では、小泉首相はなぜ、郵政民営化にこだわったのであろうか。それは、旧竹下派が持つ2つの票田を奪うことにあった。建設業界票と郵政票である。郵便貯金やかんぽ生命で集めた資金は特別会計として主として公共事業に使われていた。これにより、無駄な公共事業が多く行われた。

郵政解散へ

 05年05月、小泉政権は、郵政民営化法案を国会へ提出。自民党から多くの造反者が出た。亀井静香氏や野田聖子氏が衆議院はかろうじて通過した。しかし、参議院で否決。郵政民営化法案は廃案になった。

 05年9月、小泉首相は、衆議院を解散した。郵政解散である。投票日は9月11日、9・11テロの4年後である。

刺客

  郵政民営化法案に造反した議員に対して小泉氏は公認を出さないばかりか対立候補を擁立した。この候補は刺客と呼ばれた。当時の映画で上戸彩主演のあずみが影響していると思われる。

 その代表が、小池百合子環境大臣であった。小池大臣は、クールビズで人気を高めた。小池氏は、この時に選挙区を兵庫県宝塚市から東京都の池袋に変更した。このほかにもホリエモンや高市早苗氏などが刺客として送り込まれた。

新党

 造反議員は比例代表に参加するために浸透を結成した。小林興起氏らの新党日本や亀井静香氏らの国民新党が結党された。

03年11月 小泉政権の初選挙

期日前投票

 この選挙から、期日前投票が可能になった。それまでも期日前には不在者投票で投票は可能であった。しかし、手続きが煩雑であまり利用されていなかった。

小泉政権

 01年総裁選で、小泉政権が成立。小泉フィーバーで人気を高めた。小泉フィーバーはいったん落ち着いたが、02年日朝首脳会談で再び支持率を引き上げた。

民主党とマニュフェスト

 00年代になると、自民党と民主党の構図がはっきりしていた。もし小泉政権が成立しなければ、この選挙で民主党政権が成立したといわれている。

 98年、鳩山由紀夫氏、菅直人氏らによって結党。新進党の分裂により成立した。

 00年、小沢氏ら自由党が自自公連立政権から離脱。

 03年、民主党は、小沢氏らの自由党を吸収。鳩山・菅・小沢のトロイカ体制が成立した。

 総選挙が始まると、政権公約を発表。この時、民主党はマニュフェストと表現。

73年定年制

 小泉首相は、比例代表に73年定年制を導入した。96年の選挙区調整で比例単独になった中曽根元首相や宮澤元首相はこの選挙で政界を引退した。

 これにより、55年体制以前の政治家は黒海から姿を消した。

選挙結果 自民党 安定多数を確保

 与党は12議席減らしたが安定多数を維持した。自民党は単独で過半数割れしたので連立の保守新党を吸収した。保守新党には、二階氏や海部元首相が所属していた。彼らは自民党入党後二階グループを結成した。

選挙結果 民主党 二大政党制へ

 民主党は、過半数を確保できなかったものの40議席に増やした。

 一方で、社民党や共産党は壊滅的な敗北。議席数が1桁になった。

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党三役って何?

 9月29日、岸田新総裁が誕生。10月1日に、党三役が発表されました。では、党三役とは何でしょうか。

党三役とは

 党三役とは、自民党幹部の総称である。幹事長、総務会長と政調会長の役職を指します。たまに、これに選挙対策委員長を加えて党四役と表現することもあります。

党三役は何故先に発表されるの?

 自民党の総裁には、2つの顔があります。自民党のトップの顔と総理大臣の顔である。

 自民党の総裁は、総裁選は総裁選挙で選ばれますが、内閣総理大臣は国会で改めて指名されます。本日(10月3日)時点で、自民党の総裁は、岸田新総裁ですが、総理大臣は菅首相のままです。明日、10月4日の臨時国会で指名されて初めて岸田新首相が誕生することになります。その後、閣僚が正式に発表されることになります。

幹事長とは

 幹事長は、総裁、副総裁に次ぐ3番目のポジションである。しかし、総裁は総理大臣で忙しく、副総裁も常設のポストではないので、事実上の党のトップである。

 幹事長は、公認権(選挙で公認を与えるか否かの判断をおこなう)をもち、党の財政や党の人事も管理する。党のスポークスマンの役割を持つ。

 その使命は主に3点ある。1つ目は自民党を選挙で勝たせることである。

 2つ目は、国会対策である。総裁に代わり、国会の議院運営員会や党の国会対策委員会を通じて野党と交渉し、スムーズな法案成立を行い、総裁を支える。

総務会長

 総務会長とは、総務会のトップである。本来は総務会で決定されるが、慣習として総裁が指名している。

 総務会とは、党の運営や自民党員の国会活動についての重要事項を決定する機関である。幹事長などの党の人事も総務会の決議事項であるが、総裁に一任することが慣習になっている。

 総務会の最大の権限は党議拘束である。党議拘束とは、国会での表決行動をあらかじめ決めることである。これに違反すれば、除名などの処分を受けることになる。

 総務会長は、長老級の派閥の領袖たちを納得させるのが仕事になる。そのため。調整型や長老級の政治家が就くことが多い。また、メディアへの露出が少ないため、苦労の割には目立たないポジションである。

政調会長

 政調会長は、政務調査会のトップである。

 政務調査会は、党の政策の立案が仕事になる。国会に提出する法案は、政務調査会の審査を経なければならない。

 政務調査会は、国会議員だけでなく学識経験者も参加している。

 政務調査会は、部会と呼ばれる下部組織をもっている。これは国会でいう委員会に相当するもので、外交や国防などテーマごとに設置されている。自民党の国会議員は部会に参加して法案の作成を行っている。

法案の流れ

 法律は、自民党の部会で立案。自民党政務調査会で審査。自民党総務会で承認を得た後に、閣議に挙げられる。閣議決定を経て国会に提出される。

 その後、衆議院の委員会、衆議院の本会議、参議院の委員会、参議院の本会議でそれぞれ審議を得て法律になる。

副総裁

 副総裁は、文字通り党のNo2である。これは任意で設置するポストである。総裁に代わり、幹事長などの党幹部を管理監督するポジションである。最高顧問ともいえる役職である。

 80年代から90年代前半にかけては、最大派閥の田中派や竹下派の長老が総理のお目付け役としてこのポジションに就いた。

 00年代以降は、論功行賞として中間派閥の劉秀が就くことが多い。今回も麻生派のトップである麻生氏が就任した。

選対委員長

 選挙対策委員長は、国政選挙を取り仕切る役職である。

 00年代に発足した新たな役職である。選挙対策はもともと幹事長の下にある総務局の仕事であった。

 06年の安倍総裁時に、幹事長の下に選挙対策総局を設置。菅首相も選挙対策総局の局長を務めた。

 07年、福田総裁時に、ポスト不足から選挙対策総局を選挙対策委員会に格上げ、幹事長から選挙に関する権限を分離した。初代委員長は古賀派(後の岸田派)の古賀氏であった。

 古賀委員長は、09年の都議選の敗北により、辞任。後任人事がなかなか決まらず空位に。理由は、逆風の衆議院選挙が近かったからである。

 その後、選挙対策委員会は選挙対策総局に格下げ。

 12年に、再び選挙対策委員会が復活。現在に至る。

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2010年代の衆院選 安倍政権と3つの選挙

17年10月衆院選 安倍首相 vs 小池都知事

18歳選挙制

 この選挙から、選挙権が拡大。これまで20歳以上としていた選挙権を、18歳以上に引き下げた。

 この選挙が平成最期の選挙となった。

忖度 ~森友・加計問題~

 17年の予算委員会の審議が紛糾した。安倍首相のスキャンダルである。森友学園問題と加計学園問題である。森友学園問題とは、国有地を森友学園に格安で売却した問題である。加計学園問題とは、加計学園の経営する大学の学部新設に安倍首相の関係者が口利きをしたのではないかという疑惑である。

 この時期、使われた流行語は忖度(そんたく)である。直接は支持されていないが、相手をおもんばかって行動することである。その背景には、内閣人事局の設置がある。13年の国家公務員法の改正で成立した部署である。それまで、官僚が行っていた人事のうち、幹部の人事については内閣人事局が一元管理をするようにした。この結果、官僚は、首相などの官邸の人たちに忖度するようになった。

 ちなみに、内閣人事局の設置を進めたのは、当時の官房長官である菅氏である。また、初代局長になった加藤氏は、菅政権で官房長官を務める。

17年7月 都議選

 小池都知事は、前年16年の都知事選出馬のために、自民党を離党。自民党公認候補を破って、都知事になった。

 17年1月、小池都知事を支援する都議会議員が都民ファーストの会を結党。

 17年7月の都議選に勝利。都民ファーストの会は、都議会自民党からだ1党の座を奪った。

17年9月 解散へ

 安倍首相は、9月25日、臨時国会の冒頭で衆議院を解散した。安倍首相は、「国難突破解散」であると語り、19年の消費税増税の使途北朝鮮のミサイル問題を争点に掲げた。

 マスコミや野党は、臨時国会で森友・加計問題について追及されるのを避けるためだと非難した。

小池都知事と希望の党

 同9月、小池都知事は、小池都知事を支援するために自民党を離党した国会議員のために、国政政党の希望の党を結党した。

 同9月、野党第1党の民進党が希望の党への合流を決めた。民進党とは、16年3月に民主党と維新の会が合流してできた政党である。

リベラル政党 立憲民主党

 記者会見で、小池都知事は「考えの違う議員を議員を受け入れますか」という質問に、「排除します」と回答。

 リベラル系議員の有力議員は、無派閥で出馬することになった。しかし、若手の選挙に弱い議員は混乱した。そこで、枝野氏が立憲民主党を結党。リベラル系議員の受け皿になった。

自民党 漁夫の利を得る

 当初、逆風を予測されていた自民党は、野党の分裂で議席数を減らすことはなかった。

 本来、安倍首相は、翌18年10月で2期6年で任期満了であったが、この選挙結果を受けて任期を延長。3期6年の21年10月までとなった。

立憲民主党

 立憲民主党は、当初少数政党になると見込まれていた。しかし、枝野氏のSNS戦略や小池発言への同情から次第に勢力を拡大。また、本格的なリベラル政党の復活に多くの人が期待を寄せた。15議席から55議席に拡大。希望の党を抜いて野党第1党になった。

希望の党

 一方、希望の党は、予定よりも議席を増やすことができず。7議席減の50議席にとどまった。

 小池都知事は、責任を取り希望の党の代表を降りた。18年5月国民民主党として再出発した。

14年12月衆院選 アベノミクス

消費税増税

 消費税は、民主党政権下で段階的に増税することが決まった。14年4月、予定通り消費税は5%から8%に増税した。安倍首相は、15年10月の消費税増税の先送りを発表。この是非を問うために解散へ踏み切った。

 ちなみに、この選挙から法律上、平成生まれの国会議員が誕生するが今回はなかった。

公平な報道

 14年9月、安倍政権は内閣改造を実施。総務大臣に高市氏を付けた。

 14年11月、自民党副幹事長がTVのマスコミに対して、公平な報道への要望書を出した。報道機関は反発した。

 16年2月の予算委員会で、高市大臣は放送法に基づく電波停止を示唆した。

 これが21年9月の総裁選の報道姿勢に現れた。

選挙結果 自民党 現状維持

 この選挙で議席に大きな変動はなかった。自公政権は、3分の2の議席を維持した。安倍首相は、この選挙結果を受けて、15年の総裁選挙で無投票再選を果たした。

選挙結果 民主党 代表が落選

 民主党は、議席を増やすも政権交代に至らなかった。また、民主党代表の海江田氏がこの選挙で落選した。

選挙結果 維新の党 微減

 14年9月、大阪市長の橋本氏の日本維新の会と旧みんなの党の枝氏らが合流。維新の党を結党した。

 今回の選挙では、1議席減の41議席になり、第3極を作ることができなかった。

 維新の党は、野党再編で分裂。一部の議員が離党し、大阪維新の会を発足。

 16年、民主党と合流し、民進党になった。

選挙結果 新党は惨敗

 新党は、ほとんど議席を獲得できなかった。議席を獲得できたのは、小沢代表の生活の党と石原慎太郎氏の次世代の党の見であった。

12年12月衆院選 政権奪回

近いうち解散

 12年臨時国会。民主党の野田首相はねじれ国会に困っていた。安倍総裁との党首討論の場で、近いうちに解散することを条件に安倍総裁に消費税増税法案の可決を約束。

 消費税増税が可決。12年12月野田首相は約束通りに解散を行った。

新党ブーム

 この頃、新党ブームが起こる。解散時には国政政党が16あり、合流を経て12の政党が出馬した。与党の民主党、社民党、国民新党。主要野党の自民党、公明党、共産党以外に以下の党が出馬した。

  • 渡辺喜美氏や江田氏らのみんなの党
  • 小沢代表らの日本未来の党
  • 橋本府知事の日本維新の会
  • 鈴木宗男氏の新党大地
  • 舛添氏らの新党改革
  • 田中氏(長野県知事)らの新党日本

自民党 政権交代へ

 自民党は、単独で安定多数を確保。連立与党で3分の2を確保した。これにより、第2次安倍政権が成立した。

民主党

 惨敗。議席が4分の1に激減。現職閣僚が多数落選した。

新党の勝ち組

 新党で議席を大きく伸ばしたのは、関西の日本維新の会と関東のみんなの党であった。14年、この2つの党は後に合流し、維新の会となる。

 

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河野候補と麻生氏、石破氏

20年代

副総理 麻生氏

 河野候補は、スター級の応援者が多い。そのため、2回に分けました。前回は、同郷の小泉氏と菅首相を扱いました。今回は、河野候補の派閥の長である麻生副総理と河野候補を支持する石破氏の歴史を見ていきます。

 河野候補は、麻生派に所属している。しかし、麻生氏は河野候補の出馬に否定的である。

 麻生氏は、菅政権でも副総理兼財務大臣を務めている。また、麻生派は現在自民党の第二派閥である。

安倍首相のライバル 石破氏

 石破氏は、現在要職についていない。20年の総裁選では、菅氏に敗北。想定に反して最下位に終わった。これにより、石破氏は求心力を失った。

 21年総裁選。二階幹事長は石破氏を完全バックアップをしようとしていた。しかし、前回の大敗に二の足を踏んでいた。そこに国民人気の高い河野候補が出馬。党員票が割れると踏んで出馬を取りやめ、河野支持に動いた。

10年代

18年総裁選

 安倍氏と石破氏の一騎打ちになった。主要派閥が安倍首相を支持たため、安倍氏の3選が決まった。しかし、党員票などで石破氏が肉薄した。

新麻生派

 12年総裁選、麻生派と山東派は共同して安倍政権成立に動いた。これをきっかけに合流に向けて交渉を開始した。

 そして、17年に合流。自民党第二派閥になった。

 山東派は、党人派の三木武夫氏が創設した派閥である。クリーンな印象のある派閥で、ロッキード事件時に三木首相を、リクルート事件時には海部首相を輩出した。

16年参議院選挙

 16年、参議院選挙直前の都知事選で自民党推薦候補を破り、無所属の小池都知事が誕生した。自民党の中では参院選を不安視するようになった。

 そのため、安倍政権は内閣改造に踏み切った。石破氏は農水大臣として入閣を要請したが、これを固辞した。

 この頃から、石破氏は安倍政権への批判的な発言が目立つようになった。安倍政権は、石破氏を中国地方のトップから外した。この一件から、石破派と細田派の対立が続いた。この対立は現在も続いていて今回の総裁選にも影響が出ている。

 その後、石破氏は石破派を正式に発足させた。

 2016年の総裁選では、山東派から、SPEEDの今井氏が出馬し、当選した。合流して麻生派に所属。岸田候補を支援している。

15年総裁選

石破氏は、安倍政権の支持率を理由に出馬を見合わせた。野田氏はこの総裁選に出馬を検討していた。しかし、出身派閥の山東派が麻生派との合流交渉中のため、推薦人を出さなかった。推薦人が集まらず出馬を断念した。これにより、安倍首相は無投票で再選された。

石破幹事長

 12年総裁選で逆転負けした石破氏は、幹事長に就任。12年衆院選、14年参院選を勝利に導いた。

 国会議員の増加で党員票の比率が低下。石破幹事長は党員票と国会議員票の比率を1対1になるように変更した。

 14年9月改造内閣。内閣府特命大臣(安全保障法制担当)を打診された。石破氏は、党幹事長への残留を希望したために固辞。党幹部の批判を受け、内閣府特命大臣(地方創生担当)に就任した。

 この頃、石破氏は、無派閥議員を集めて勉強会を発足した。事実上の石破派の結成と目され、15年総裁選への出馬が噂された。

12年総裁選 安倍総裁の誕生

 12年の総裁選は、谷垣総裁続投で決まるはずであった。しかし、旧山崎派の石原幹事長が出馬を表明。森氏など党の重鎮が石原幹事支持へ。勝算が低いとして、派閥のトップの古賀氏が谷垣総裁に出馬断念を促した。

総裁出馬断念で、総裁選は今回のような乱立状態になった。党員票に強い石破氏と町村派の町村会長が出馬を表明。石破元政調会長vs石原幹事長の戦いの様相になった。

ここで、若手の筆頭菅氏が動いた。安倍元総理を擁立したのである。安倍元首相は、町村会長の手前、固辞した。しかし、麻生派と高村派(後の山東派)の支援を確保。急遽出馬した。

 議員票が分裂。党員票に強い石破氏がトップになったが過半数を取れなかった。

  

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河野候補とチーム神奈川

神奈川県

 河野太郎氏の地盤は、神奈川県西部である。サザンビーチで有名な茅ケ崎市があるエリアの選挙区である。

 この選挙区には、別荘地で有名な大磯がある。80年代に芸能人水泳大会で有名になった大磯ロングビーチがあるところである。戦後、ここには吉田茂元首相が晩年を過ごした邸宅がある。その孫が、現在の派閥の会長である麻生太郎氏である。

 神奈川県選出の議員には、このほかに横浜の菅首相。横須賀の小泉進次郎氏がいる。

00年代

ワクチン担当大臣 河野候補

 河野氏は、菅政権で行革大臣に就任した。行革110番の設置を菅首相から指示されると速やかに実行した。

 21年、田村厚生労働大臣がワクチンまで手に回らなくなると、ワクチン担当大臣を兼任。薬事法の規制を次々緩和しワクチン接種を進めた。

菅首相

 20年に入ると、官邸と菅官房長官の関係が悪化した。重要な決定が菅官房長官のいないとことで決まるようになった。この不仲は野党が国会で追及するほどであった。

 ここに目を付けたのが二階幹事長である。当時、安倍首相は、甘利氏を次期官房長官に考えていた。甘利氏は、山崎派に所属していたが、12年の総裁選で旧山崎派の石原氏が出馬するも、菅氏や麻生氏らとともに安倍政権の樹立に尽力した人物である。

 二階氏は、令和おじさんとして人気の高い菅官房長官に目を付けたのである。

 9月、森友加計問題で安倍首相は体調を崩し退陣。二階幹事長は動き出した。菅官房長官が出馬を発表。各派閥の若手議員もこれに追随。主流の細田派、麻生派と竹下派もこれに追随。菅政権が成立した。

 しかし、コロナ問題はデルタ株によって長期化。ワクチン供給も遅れ支持率が低下した。

 21年総裁選をひかえて、若手議員を中心に反発。小泉環境大臣が説得に当たるも失敗。総裁選不出馬を表明し、退陣することになった。

環境大臣 小泉進次郎氏

 19年8月、オリンピック招致で活躍した滝川クリステル氏と結婚。翌9月、環境大臣に就任した。20年1月、第1子が誕生。20年9月の総裁選では、菅官房長官を支援した。

10年代

外務大臣 河野太郎氏

 河野氏は、10年幹事長代理に就任。シャドウキャビネットで行革担当大臣になる。12年総裁選では、麻生氏とともに安倍元首相を支持。15年、安倍政権で行革大臣に就任。

 17年、岸田候補が政調会長に就任したのにともない、外務大臣に就任。ハイペースで外国へ訪問するとともに、韓国に対しては断固とした態度をとった。

 19年、防衛大辞任就任。20年、菅政権が成立すると行革大臣になった。

最強の官房長官 菅氏

 野党時代、菅氏は無派閥の議員で会った。12年総裁選。安倍元首相の擁立に尽力した。安倍元首相が所属する町村派は町村会長で一本化されていた。菅氏は、安倍元首相を説得。さらに、麻生派を味方につけて安倍政権を復活させた。

 安倍政権が成立すると、菅氏は官房長官に就任した。菅官房長官は、官邸主導を進めるために内閣人事局を設置。この官邸主導はのちに、忖度として森友加計問題につながる。ちなみに初代局長は。現在の官房長官の加藤氏である。

 19年4月、官房長官として新元号「令和」を発表。これにより、菅官房長官は若者の人気を集める。当時官邸は、岸田政調会長への禅譲を進めていた。そのため、官邸と菅官房長官の間に亀裂が生じた。

青年局長 小泉氏

 小泉氏は09年に初当選。逆風選挙で同期当選は2人であった。そのため、多くの役職を兼務した。11年、青年局長に就任。12年の衆議院選挙では、各地で応援演説を行い当選させた。そのため、多くの若手議員は、小泉氏に恩を感じ出ている。15年、自民党農林部局長に就任。農協(JA)の改革を行った。

00年代

09年 政権交代選挙

 08年、河野候補の師である麻生氏は首相に就任。早期に解散し長期政権を目指そうとした。しかし、予定が狂った。9月のリーマンショックである。これにより。不況が始まった。自民党の支持率はさらに低下。解散ができなくなった。

 09年7月、都議選に敗北。古賀氏は責任を取り、選挙対策委員長を辞任。逆風の衆院選を控え後任人事は難航。結果、空位のまま、選挙対策副委員長であった菅氏が代行した。

 09年衆議院選挙で、小泉元首相が政界を引退。小泉進次郎の出馬が決まった。このとき、時の首相の麻生氏は「進次郎が出馬するの、あの人はお父さんと違って普通の人だよ」と語った。

 この衆院選で、小泉氏は初当選。同期当選は2人しかいなかった。自民党も議席を半減。野党になった。

 その後の総裁選。河野太郎氏が出馬。第一派閥の谷垣派の谷垣氏が総裁に就いた。

07年総裁選 反麻生同盟

 安倍政権は、07年の参院選挙に敗北。選挙対策委員長に横浜で選挙に強い菅氏が就任した。

 07年、安倍首相は辞任。自民党総裁選挙が始まった。古賀氏と麻生氏は仲が悪かった。麻生政権の成立を嫌った。そこで、古賀氏は谷垣派と町田派(現在の細田派)と組んで、町村派の福田氏を擁立。福田氏は、麻生氏を破り、総裁になった。

 この時、菅氏は、古賀派に所属していたが、離脱して麻生支持回った。以後、菅氏は無派閥であるが麻生派と良好な関係を築いている。

 ポストの不足から、選挙管理委員長というポストを新設。古賀氏を就任した。副委員長には、元選挙対策本部長の菅氏が就いた。

 古賀氏と菅氏は、たたき上げの政治家である。当時批判の高かった世襲について制限を検討した。しかし、党内の世襲議員たちの反発にあい、実行できなかった。

 この頃、小泉進次郎氏は、06年にコロンビア大学を卒業。アメリカのシンクタンクの研究員になる。07年、小泉元首相は、進次郎氏を帰国させ、自身の私設秘書に就けた。そして、08年に、小泉元首相は引退を表明した。

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岸田候補と岸田派

20年代

21年総裁選 党改革と二階幹事長

21年総裁選。当初は、岸田氏vs菅首相の戦いになるはずであった。岸田首相は先制パンチを打った。これが党改革である。党三役に任期を設け、二階幹事長を退かせようとした。これにより、若手の任期を得た。

 菅首相もこれに追随。これで、二階幹事長と菅首相の関係が悪化。菅首相は出馬を断念せざるを得なくなった。

20年総裁選 二階幹事長と菅官房長官に敗れる

 岸田候補は、ポスト安倍の最有力候補であった。

19年から、森友加計問題や桜を見る会の問題で心労がたたった。そこにコロナの問題。安倍首相は体調を崩し、辞任した。

 ここで二階幹事長が動いた。令和おじさんで人気を博した菅官房長官を擁立したのである。二階派と若手議員が菅官房長官に就いた。これに危機感を感じ、細田派(安倍首相派閥)、麻生派、竹下派の主要3派閥が菅官房長官につき、菅政権が成立した。

給付金問題

 おそらく、安倍元首相は、岸田首相と菅官房長官のタッグを考えていた。しかし、官僚は、動かしにくい菅官房長官を外そうと動いていた。20年に入ると、重要な決定で菅官房長官が外されることがあったようだ。野党からもこのことについて追及されるほどであった。

 コロナで経済が悪化。官邸の官僚と岸政調会長は、給付金について協議。低所得者層に30万円の給付金を発表した。しかし、二階幹事長が公明党と一緒に反発。一律10万円の支給に変えられた。

10年代

政調会長時代

 17年8月、自民党政調会長に就任。ポスト安倍の準備を始める。18年9月の総裁選。岸田政調会長を推す声も高かったが、出馬を見送り、安倍首相を支持した。

外務大臣時代

 14年12月に外務大臣に就任した。起用の理由は2つあった。1つは、バックについていた古賀氏中国に太いパイプを持っていた。もう一つは、沖縄県知事に強いパイプを持っていた。当時の沖縄は、民主党政権の置き土産で普天間基地の移設問題を抱えていた。

 岸田外務大臣時代は、韓国との関係が悪化した時代である。徴用工問題と慰安婦問題である。慰安婦問題では財団を設立し10億円を拠出し日韓合意を得た。

 岸田外務大臣の最大の功績は、オバマ大統領の広島訪問である。

野党の国対委員長

 11年、谷垣総裁時代に、国会対策院長に就任。与党民主党との交渉を担当した。

00年代

アフター小泉政権

07年、岸田候補は安倍政権で初入閣。内閣府特命大臣として、高市候補、野田候補と連携し、消費者庁を創設に尽力した。

07年、安倍首相が退陣。有力候補は麻生氏であった。主要派閥は、反麻生同盟を結成。町村派(細田派)の福田氏が首相になった。加藤の乱で分裂した旧宮澤派の谷垣派と堀内派はこの時に合流した。これが現在の岸田派である。

08年、麻生政権が成立。人気の高い麻生政権で支持率を上げて解散に踏み切ろうとした。しかし、9月にリーマンショックが発生。景気が悪化。任期満了間近の09年12月に総選挙。自民党は野に下った。岸田候補は、この逆風選挙で議席を守った。

加藤の乱

00年、森政権が成立。失言で支持率を大きく低下させていた。そのような中、野党の民主党が内閣不信任案を画策していた。加藤派(旧加藤派)の加藤氏と山崎派(旧中曽根派)の山崎氏がこれに賛成しようとした。これは80年のハプニング解散や93年の小沢グループの造反を意識したものであった。

 森首相支持派の小泉氏(森派)と野中氏(小渕・橋本派)が切り崩し工作を行った。これにより、加藤の乱は失敗に終わった。

 加藤の乱で、加藤派(現岸田派)は、加藤氏に追随した谷垣派と加藤氏に就かなかった堀内派に分裂した。岸田候補は、親戚の宮澤元首相を頼って堀内派に参加した。

90年代

 93年、岸田候補は、父の地盤を引き継いで広島から出馬。親戚で現職首相の宮澤氏に応援演説をしてもらった。無事初当選。同期には安倍元首相や野田候補がいた。当選後、岸田候補は宮澤派に所属した。97年に若手のトップ自民党青年局長に就任した。

80年代後半

87年、日本長期信用銀行(現在の新生銀行)を退職。衆議院議員の秘書になる。

70年代

 78年、岸田候補は、早稲田大学を卒業。日本長期信用銀行に入行。

 翌79年、岸田氏の父が通産官僚を退職。衆議院選挙に出馬。当選する。同期は、麻生氏や亀井氏がいる。岸田候補の父は大平派(後の宮澤派に所属した。)

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高市候補と安倍元首相

20年代

21年総裁選

20年、安倍首相が体調不良を理由に退陣。翌21年の総裁選。安倍元首相は岸田候補を麻生副総理と一緒に推していた。しかし、岸田候補が森友学園問題の再調査に言及。安倍元首相は、急遽高市候補を擁立した。

安倍首相は何故退陣することになったのか?

 では、なぜ安倍首相は任期途中で退陣したのであろうか。この時期、多くのスキャンダルが発覚した。森友学園問題や桜を見る会の問題である。森友学園問題は、国有地を相場よりも安い価格で、知り合いの森友学園に販売したという疑惑である。桜を見る会の問題は、桜を見る会の開催時に講演会の人たちの宿泊費等を一部負担した可能性があるといる疑惑である。

10年代

総務大臣 vs野田候補

 14年改造内閣。高市候補は総務大臣に就任した。17年、安倍首相は都議選で小池都知事の都民ファーストの会に大敗。内閣改造を余儀なくされた。多様性を重んじて、安倍色の強い高市氏から安倍首相と考え方が遠い野田氏に総務大臣を後退させた。19年、再び高市氏が総務大臣に就任。20年、高市氏が総務大臣を退任した。

政権交代で党三役に

 安倍総裁は、12年12月の衆院選に勝利。安倍政権が成立した。この時、高市候補は政調会長に就任した。

12年総裁選

 12年総裁選。町村派(現、細田派)は分裂していた。12年の総選挙。町村派は候補者を一本化できず、安倍元首相と町村会長がともに出馬した。

 町村氏は、体調不良で総裁選から離脱。町村派は安倍元首相に一歩ウンカした。

 総裁選は、一位が無派閥の石破氏、二位が安倍元首相になった。しかし、決選投票になり、派閥を固めた安倍元首相が逆転。安倍総裁が成立した。

 ただ、この総裁選で派閥批判が高まった。そのため、党員票の比率をさらに引き上げ、現在のルールになった。

安倍元首相vs町村会長

 では、町村会長と安倍元首相は、なぜ対立していたのであろうか。それは10年の参議院幹事長選挙にあった。町村派など主流派の派閥は谷川氏でまとめていた。しかし、若手議員が反発。中曽根元首相の息子である中曽根氏を担ぎだした。これに安倍元首相ら町村派議員が同調。中曽根氏が勝利した。

 ちなみに、この問題をきっかけに高市候補は町村派を離脱している。この問題があるため、細田派の一部議員は高市候補に否定的になっている。

00年代

 00年代前半は、小泉政権の時代である。高市氏は、03年の衆院選で落選。05年の衆議院選挙(郵政選挙)。刺客として国替。国政に復帰した。

 06年の安倍政権で初入閣。内閣府特命大臣として消費者問題を担当した。

 しかし、07年の福田政権で経済産業副大臣に。この時、消費者問題担当を引き継いだのが野田候補であった。

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野田候補と二階派

今回から、4回にわたり、各候補の歴史を見ていきます。初回は野田候補を見ていきます。野田候補と

20年代

初出馬

 野田氏は、無派閥の議員である。そのため、何度も総裁選を出馬しようとしたが、20人の推薦人が集まらず断念した。

 しかし、今回は二階派が推薦人を提供。出馬が可能になった。

二階おろし

 01年、自民党総裁選が始まると、岸田氏が出馬表明。ここで、岸田氏は二階幹事長に先制攻撃を仕掛けた。公約の1つに自民党役員の任期制限を付けた。これが二階おろしの始まりである。

 若手議員や世論はこれを支持した。

 若手議員の支持が多い菅首相も、これを無視できなかった。そのため、菅首相も二階幹事長の再任を否定した。二階氏は、これを容認する一方で、後継候補を提供しなかった。

 敗色濃厚の衆院選が控えているため、幹事長のなり手がなく、菅首相は総裁選の出馬を断念せざるを得なくなった。

 一方、二階幹事長も迷走した。有力対抗馬の河野氏に接近したが、河野氏はこれを拒否。次に向かったのが石破氏であったが、不出馬で河野氏支持へ回った。

 結果、野田氏の出馬を支援することになった。

狂ったシナリオ

 二階幹事長と菅政権が想定していたシナリオは以下のとおりである。

 春には、コロナが終息。夏の東京オリンピックの成功で衆院選に勝利。無投票で総裁選を再選。

 しかし、デルタ株が流行で、緊急事態宣言の再発令。東京オリンピックも無観客で開催。観光客もほとんど来ず、多くの批判を浴びた。そのため、解散カードを切れず、先に総裁選を迎えることになった。

菅政権

 20年、安倍首相が体調不良で辞任。安倍首相や官邸は、岸田氏へ禅譲で進めていた。

 しかし、二階幹事長がここで仕掛けた。菅官房長官を担ぎ上げたのである。これにより、菅官房長官の流れができ、安倍首相らもこれに追随せざるを得なかった。

 岸田氏は、これに激怒。21年総裁選の二階おろしにつながる。

10年代

出馬断念の歴史

 12年、安倍政権が成立。野田氏は自民党総務会長に就任した。この時、高市氏も政調会長に就任している。

 15年、リベラル派の代表として総裁選に出馬を検討。しかし、推薦人が集まらずに断念。

 17年7月、安倍自民党は都議選で都民ファーストの会で大敗。内閣改造を実施。総務大臣は、タカ派色が強い高市氏から、野田氏に変更した。10月、タカ派色の強い小池氏の希望の党に勝利した。

 18年総裁選、再び野田氏が出馬に向けて動いた。しかし、また推薦人が集まらずに断念した。

二階派に成立

 09年、自民党が大敗。伊吹派は、壊滅状態の二階グループを吸収した。12年衆院選で自民党は与党に復帰。伊吹会長が衆議院議長に就任。二階氏が後継会長に就任。14年、野田氏の後継で二階氏が自民党総務会長に就任。16年、二階氏が自民党幹事長に就任。現在に至る。

弱きもののための政治

野田氏は、

00年代

90年代

80年代後半

70年代

60年代

50年代

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自民党の歴史 3人の長老 vs 若手

長老 vs 若手

 多くの自民党総裁選は、派閥の論理で決まっていた。しかし、今回の選挙はこの様相が違っている。派閥が若手をコントロールできなくなっている。

 現在、自民党では、当選3回以下の議員を若手と呼んである。3回前の選挙は、2012年に政権を奪還したときのものである。つまり、逆風の中での選挙は今回(2021年)が初めてである。

 自民党の推計では、与党で過半数を維持するが、多くの議席を減らすとしている。中堅以上の地盤がしっかりしている議員は、当選後の閣僚人事を気にする。そのため、おそらく派閥に従っていくと思われる。しかし、若手は勝てる候補を探している。

 若手議員が求めているのは、2001年の総裁選である。当時の自民党は、森首相の発言で逆風が吹いていた。民主党政権への政権交代も現実味を持っていた。しかし、この選挙で小泉首相が誕生。自民党の支持率は急上昇した。

 若手議員は、派閥中心の密室政治が自民党を悪く見せていると考えている。前回(2000年)の総選挙は、派閥相乗りで菅総理が誕生した。そのため、長老に歯向かうことで自民党が改革していることをアピールしている。

3人の長老① 前首相の安倍氏

生い立ち

 安倍首相は、初の戦後生まれの総理であった。54年に東京都で生まれた。祖父が岸首相、父が安倍晋太郎という3世議員である。幼いころに安保闘争を経験している。

 成蹊大学を卒業後、神戸製鋼に就職。その後、父安倍晋太郎の秘書となった。91年総選挙で初当選。同期には、今回の総裁候補の岸田氏、高市氏がいる。ちなみに田中真紀子氏も銅器である。父と同じ、旧安倍派(現在の細田派)に所属している。

 00年の森首相時に官房副長官になった。03年、山崎氏がスキャンダルで失脚すると自民党幹事長に就いた。05年、小泉氏が優勢選挙で総理。安倍氏を後継に考え官房長官に就けた。

 06年、小泉首相の任期満了で総裁選が行われる。この時出馬したのが麻生氏と谷垣氏(現在の岸田派)である。小泉氏の後継ものとして圧倒的大差で勝利した。

 経済政策は、小泉首相時代のものを継承。教育改革などタカ派色の強い政策をとった。しかし、この時期、自民党の不祥事が相次いだ。07年の参院選に敗北。1年で退陣した。

 12年、谷垣氏の任期満了の総裁選で勝利。首相に返り咲いた。

3人の長老② 副総理の麻生氏

3人の長老③ 幹事長の二階氏

 二階幹事長は、戦時中の39年、和歌山県に生まれる。父は県議会議員の政治家の家系であった。

80年代 初当選、田中派に所属

 83年の中曽根政権時に初当選。同期は谷垣元総裁である。初当選時は最大派閥の田中派に所属した。二階氏は、親中派になる。

90年代 小沢氏とともに、自自公連立内閣へ

 93年に小沢幹事長とともに自民党を離党。新生党に参加する。その後新進党へ。新進党が回答すると、小沢氏とともに自由党に参加。98年の自自公連立に参加する。

00年代 自民党へ合流

 00年4月、小沢氏の連立離脱で、自由党が分裂。海部元首相らとともに自由党を離党し、保守党(のちの保守新党)を結成。連立政権に残留。7月の総選挙で保守党に大惨敗。このころ、保守党の野田氏の紹介で中曽根元首相と親交を深める。

 03年11月の総選挙でも、保守党は議席を減らす。その年に自民党に合流。二階グループを結束。05年の郵政解散で、活躍。厚い信頼を得て、復党組では異例の要職に追くことになる。

 09年の政権交代選挙で、二階グループは、当選が二階氏の身になった。そのため、同期の伊吹会長を頼って、伊吹派(元中曽根派)に所属した。

10年代 幹事長へ

 12年に自民党が与党に戻ると、会長の伊吹氏が衆議院議長に就任。二階氏は派閥の会長になる。

 16年、前幹事長の谷垣氏が自転車事故で入院。二階氏は自民党幹事長になる。

 

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50年代の自民党 自民党の結党

党人派と官僚派

 50年代から60年代、党人派と官僚派が勢力争いをしていた。

 官僚派とは、高級官僚出身の政治家である。代表格は吉田首相である。戦後、党人派の大部分はGHQによって公職を追放。選挙に出馬することができなかった。そのため、保守派の政治家が不足した。そこで代わりに政治家になったのが、高級官僚たちであった。

 党人派とは、戦前から政治家だった人たちである。代表格が自民党の初代党首である鳩山一郎である。

安保闘争と岸首相

 岸首相は、日清戦争勝利直後の96年の山口県に生まれた。東京帝国大学卒業後、農商務省に進んだ。当時のトップ省庁である内務省で、岸氏の判断は周りを驚かせた。

 農商務省は、農林省(現在の農林水産省)と商工省(現在の経済産業省)に分離された。岸氏は商工省に配属された。その後、満州に配属された。ここで、軍部や財界、官界に広範な人脈を築いた。同郷の鮎川氏(財閥のトップ)や松岡氏(国連脱退時の外務大臣)も満州にいた。東京へ戻ると、東條内閣で商工大臣として入閣。しかし、その後次官に降格。これにより、岸元大臣は反東條派になる。

 戦後は、A級戦犯として投獄された。48年に釈放。公職追放処分を受けて、民間企業の役員を歴任した。

 公職追放解除後は、自主憲法制定を掲げて政党を設立。ただ、53年総選挙で大敗。吉田自由党に入党する。 

 56年、岸政権が成立。汚職、貧乏、暴力の三悪の追放を掲げ、減税を実施した。

 また、米国とは一定の距離を置き、自主外交を展開した。

 60年1月、アイゼンハワー大統領と会談。安保条約を改定。安保条約の不平等性を改善する一方で、相互防衛を約束した。

 これにより、東京で安保闘争が起こる。60年7月岸内閣は退陣した。

石橋首相

 56年自民党総裁選が行われる。決選投票までもつれ込み、わずか7票差で岸首相を破り、石橋氏が総理総裁になった。しかし、体調不良で2か月で退陣。次点の岸首相が後継総裁になった。

自民党は何故誕生したのか?

 55年1月、鳩山首相は、衆議院を解散。比較第一党を確保するも、過半数をとることができなかった。

 55年10月、社会党左派と社会党右派合流。日本社会党が結成された。これにより、社会党が第1党になった。これに脅威を感じ、鳩山首相の民主党と吉田前首相の自由党が合併。自由民主党が設立した。

 鳩山首相は、自主外交を展開。ソ連と国交を回復し、国連に加盟した。

 鳩山首相は、ソ連との国交回復を花道に、退陣した。

鳩山首相

 鳩山首相は、帝国議会が設立される前の83年の東京で生まれる。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業。地方議会を経て、1915年に衆議院に初当選。

 終戦後に、自由党を結成。46年の総選挙で第一党になる。しかし、公職追放。首相の地位を吉田に預ける。

 51年、公職追放を解除。

 54年11月、民主党を結党。幹事長に就いたのが岸氏である。12月に鳩山政権が成立した。

吉田首相

 52年4月、サンフランシスコ講和条約を締結。日本は独立をはたした。この前後から、公職追放が解除。鳩山氏や岸氏が政界に復帰する。