17世紀前半の東南アジア オランダの進出と山田長政

17世紀後半の東南アジア

 東南アジアは、国際交易の重要拠点である。16世紀、その中心にあったのがタイのアユタヤ朝であった。

 しかし、17世紀前半、日本(江戸幕府)が鎖国政策を実施。これにより、東アジアの国際交易は縮小した。これにより、アユタヤは急速に縮小した。また、国際交易の拠点はタイのアユタヤからジャワ島のジャカルタ(パタヴィア)に変わった。

17世紀前半の国際情勢

 日本は、江戸時代初期。徳川家康から徳川家光の時代である。この時代に鎖国を開始する。ただ、この時代の日本は、信長秀吉の時代のような血気盛んな武士が闊歩する時代であった。

 17世紀はアジア4代大国が成立する時代である。中国では明王朝が滅亡し、清王朝が成立する。インドはムガル帝国の時代。世界遺産のタージマハルが完成した。イランはサファヴィー朝が成立。トルコのオスマン帝国は、スレイマン1世の時代。ヨーロッパ諸国に大きな影響を与えた。

 ヨーロッパでは、ドイツ三十年戦争が勃発。神聖ローマ帝国が事実上解体された。

オランダ vs ポルトガル

マラッカ海峡

 マラッカ海峡は、インド洋から東アジアへ向かう際に通る海上交通の要所である。16世紀前半、ポルトガルはイスラム国家マラッカ王国をほろぼし、ここに拠点をおいた。

 オランダは、マラッカ海峡の利権をもとめて、ポルトガル領マラッカを攻撃。40年、マラッカ海峡はオランダ領になった。

 オランダは、この時期にポルトガルから、スリランカやモルッカ諸島を奪っている。

 これにより、東南アジアのポルトガルの拠点は、東ティモールのみとなった。

ポルトガルの独立

 ポルトガルは、16世紀後半に王家が断絶。スペインと同君連合になる。しかし、ドイツ三十年戦争でスペインが支援するオーストリア=ハプスブルク家が劣勢。ポルトガルはこれに乗じて40年に独立を回復した。

オランダ独立戦争

 同じ頃、オランダは独立戦争の真っ只中であった。オランダは、太陽の沈まぬ国スペイン=ハプスブルク家からの独立を目指していた。

その後のポルトガル

 41年にマラッカ海峡を奪われた。ポルトガルは、東南アジアや東アジアでの影響力を大きく落とした。

 ポルトガルは、ステューアート朝イングランドに接近。ムンバイなどのアジアの利権をイギリスに譲渡。イギリスのインド統治は強化された。

 ポルトガルのアジアの植民地は、インド西岸のゴア、東南アジアの東ティモール、中国のマカオのみとなった。

オランダ vs イギリス

アンボイナ事件

 23年、モルッカ諸島(現在はインドネシア領)をめぐり、イギリス(イギリス東インド会社)とオランダ(オランダ東インド会社)が争った戦い。

オランダが勝利。これにより、オランダは東南アジアからイギリスを一掃。ジャワ島のジャカルタ(パタヴィア)を中心に東南アジア諸島部を統治するようになった。

 一方、イギリスは東南アジアから撤退。インド(ムガル帝国)の経営を重視するようになる。

ジャカルタ争奪戦

 19年(アンボイナ事件の3年前)、イギリスとオランダは争っている。

 オランダは、ジャワ島東部バンデン王国の港町ジャカルタに拠点をおいた。この港町からイギリス人を追放。この港町をパタヴィアと呼ぶようになった。

勝者オランダのその後

 アンボイナ事件に勝利したオランダは、ジャワ島への支配を強固にした。当時のジャワ島は、西のバンテン王国と東のマタラム王国に分かれていた。オランダは、この2カ国を属国化した。ちなみに、ジャカルタは西のバンテン王国の都があった場所である。

 オランダは、ジャカルタ(パタヴィア)を中心にアジア全域に交易ネットワークを構築した。

  • 長崎(日本) 江戸幕府によってヨーロッパとの交易を独占
  • 台湾 明王朝、清王朝との交易拠点であったが鄭成功によって1661年に追放された。

 ポルトガルは、マラッカ海峡など多くの拠点をオランダに奪われた。それでも残ったのが、南インドのゴア、清王朝のマカオ、東南アジアの東ティモールである。

敗者イギリスのその後

 イギリスは、東南アジアから撤退。インド経営に注力するようになる。一方で戦費の確保のために増税を実施。これにより、国王と議会が対立。ピューリタン革命(イギリス革命)が勃発する。

舞台となったモルッカ諸島とは

 モルッカ諸島は、ジャワ島の東にある群島である。香辛料の産地で、ヨーロッパ商人たちは競ってこの地に進出しようとした。

 当時の香辛料は、臭み消しとして肉料理には欠かせない調味料であった。金と香辛料が同じ価格と言われたほどである。

 オランダは、アンボイナ事件でモルッカ産香辛料の独占販売権を獲得。これにより、オランダは全盛期を迎える。

17世紀前半とオランダとイギリスの関係

 16世紀後半、オランダは独立を宣言。スペインとの間でオランダ独立戦争が始まる。同じ頃、イギリスは、エリザベス女王が即位。スペインとの関係が悪化する。16世紀後半、オランダとイギリスは共通の敵スペインと戦うことで良好な関係が続いた。

 しかし、03年、エリザベス女王が崩御。スコットランド系のステューアート朝が成立。このステューアート家はフランス王家と関係が深いため、オランダとの関係は悪化し始めた。

(雑学)じゃがいもが日本に伝わる

 日本にじゃがいもが伝わったのは、17世紀前半である。ジャワ島から伝わった芋ということでじゃがいもと呼ばれるようになった。

 ちなみに、じゃがいもの原産は南米である。16世紀のアメリカ探検の過程でアメリカ大陸からヨーロッパに伝わった。オランダの拠点であるジャワ島経由で日本に伝わった。

 江戸時代の飢饉の際は、じゃがいもで飢えをしのいだものもいた。

(雑学)インドネシアはイスラム教を信仰しているのか

 インドネシアは、イスラム教徒が一番多く住む国である。一方で、スペインから独立したフィリピンやポルトガルの植民地であった東ティモールではキリスト教徒が多い。この理由はなぜだろうか。

 この違いは、プロテスタントとカトリックの違いである。スペインやポルトガルは、カトリックを信仰。植民地で熱心に布教を行った。一方で、オランダはプロテスタントの国である。他の宗教に寛容であった。

 プロテスタント(カルヴァン派)が他の宗教に寛容なのは、予定説から来ている。キリスト教では、人々は最期の審判で裁かれると信じられている。カトリックでは、寄付などのこの世の行いで、審判が決まると考えられている。一方で、カルヴァン派(プロテスタント)では、最後の審判は最初から決まっている。天国へ行けるものは、布教をしなくても行いがよく、キリスト教を最初から信じているとしている。

東インド会社の設立

東インド会社とは

 00年にイギリス東インド会社が、02年にオランダ東インド会社が設立された。

 東インド会社とは、ヨーロッパとアジアとの貿易商社である。その特徴は2つである。

  • 国王などが貿易の独占権を認めた。
  • 貴族や承認からも資金を集めて設立された。

 イギリス東インド会社は、商人たちがスペイン・ポルトガルに対抗できる貿易商社の組合として設立。エリザベス女王は、これに東アジアでの貿易独占権を与えた。これが東インド会社である。東インド会社は独占権の見返りに、ロイヤリティをイギリス王室へおさめた。

 ロイヤリティの語源は、王室(ロイヤル)から貿易独占権のようなものを認めてもらう見返りに、王室におさめるものからてきている。

 オランダ東インド会社は、多くの貿易商社が合同して設立された。貿易独占権は、総督や国王ではなく議会が与えた。 

17世紀初頭のヨーロッパ情勢

 では、イギリスとオランダは、なぜ東インド会社を設立したのであろうか。

 最強の競争相手がいたからである。それが、スペインである。当時のスペインは、フェリペ2世の全盛期である。ポルトガルを併合し、新大陸だけでなく、ポルトガルが持つアジア・アフリカの拠点も手中にshていた。

 オランダは、まだスペイン領(オランダ独立戦争中)であった。イギリスは、ブリテン島の南半分であるイングランドのみを統治していた。そして、オランダはスペインと独立戦争の真っ只中にあり、イギリスもスペインとの同盟を拒否したために、険悪な状況にあった。

 しかし、ドイツ三十年戦争でスペインが次第に衰退。イギリスは17世紀なかばにイギリス革命に入る。これにより、17世紀はオランダの時代になる。

タイ)アユタヤ朝と山田長政

アユタヤ朝(タイ)

 16世紀前半のタイはアユタヤ朝の時代である。都のアユタヤは国際交易の中心都市で外国人居留区がいくつも存在した。ポルトガルなどのヨーロッパ系のほかに、アジア系の民族の居留区もあった。マレー人、ベトナム人や中国人のほか、日本人居留区もあった。

 しかし、16世紀後半にミャンマーのタウングー朝でバインナウン王が即位。アユタヤは一時ミャンマーの支配下に入った。

 17世紀前半のアユタヤ朝は、ミャンマーからの独立戦争に勝利したばかりの時代であった。この戦争を勝利に導いたのがナレースアン王の象部隊であった。

山田長政

 山田長政は、タイに渡った有名な日本人である。彼が活躍したのもこの時代である。

 山田長政は、16世紀末(戦国時代末期)に生まれ、成人すると沼津藩(静岡県東部)に使えた。

 12年、朱印船に乗りアユタヤに渡る。アユタヤ朝の日本人傭兵部隊に参加した。

 山田長政はスペインを撃退し、アユタヤの国王から領地と官位を得る。

山田長政の最期

 30年、王の後継者争いに巻き込まれ暗殺される。この時、新国王は日本町を焼き討ちした。その後、日本が鎖国政策を始めたため、アユタヤの日本町は再建されなかった。

 ここからは私の個人的推測だが、アユタヤ朝はオランダを警戒していたのかもしれない。この時代の日本は、オランダとの連携を強めていた。オランダは、インドネシア方面で大きな勢力を誇っていた。

鎖国政策

 日本では、16世紀末からカトリックの弾圧を開始した。当初はキリスト教の禁止のみであった。

 33年から、三代将軍徳川家光の時代に鎖国政策が段階的に始まった。37年、キリスト教の農民反乱である島原の乱が発生。39年、スペインから独立したポルトガル船の入港を禁止。鎖国は完成した。

朱印船貿易

 鎖国政策前の日本の貿易政策はどのようなものであっただろうか。

 徳川家康・秀忠の時代は、戦国時代のように国際交易は盛んであった。江戸幕府が成立すると貿易は許可制にされた。その許可証に朱印が押されていたので朱印船貿易と言われる。大商人や西国の大名はこれに参加した。

 これにより、東南アジア各地に日本町が形成された。ただ、主な交易は石見銀山などでとれる銀を輸出して、中国産生糸を輸入するビジネスが主流であった。

豊臣秀吉はカトリック弾圧したのか?

 では、秀吉や家康はキリスト教を弾圧しようとしたのであろうか。

一昔前の教科書では、以下のようにかかれれている。

 キリスト教の神の前で平等の考えが、身分制社会を破壊する可能性があったため。しかし、フランスなどのカトリック教国でも身分性はあり、その考えは否定されている。

 表向きの理由は、寺社の破壊や奴隷貿易など非人道的行為があったためとされている。

 真の理由は、この2つと考えている。1つ目は宣教師がスペインのスパイとする説である。16世紀後半、スペインやポルトガルは東南アジアの重要拠点を占領している。

キリシタン大名とフィリピン

 フィリピンは、当時スペインの植民地であった。中国(明王朝)とアメリカ(スペイン領)との中継貿易で栄えた。その中心は、港湾都市マニラであった。スペイン領アメリカ(新大陸)から、南米のポトシ銀山で採れた銀を流入。明王朝産の手工業品(生糸、陶磁器)などと交換された。

 16世紀末、日本とフィリピンは戦争直前の状況下にあった。しかし、秀吉の死によりこれは回避された。

 17世紀に入ると、朱印船貿易が活発。日本とフィリピンも盛んになった。また、バテレン追放令により、多くの宣教師が日本から移住。高山右近などのキリシタン大名もフィリピンへ移住した。

ミャンマー)衰退するタウングー朝

 ミャンマーはタウングー朝の時代である。タウングー朝は、16世紀後半のバインナウン王の時代に全盛期を迎えた。この時代には、タイのアユタヤの占領した。

 しかし、バインナウン王が亡くなると、タウングー朝は衰退しいた。度重なる戦争で農村が荒廃していたからである。

 17世紀に入ると、都ペグーにオランダやイギリスが進出。交易を求めた。タウングー朝はこれを拒否。鎖国政策を実施。都を南部のペグーから中部にアヴァに遷した。

 その後、南部のモン人が反乱。ミャンマーは分裂状態になった。これを統一したのが18世紀なかばに成立したコンバウン朝である。