1800年代の東南アジア ナポレオン戦争とイギリスの東アジア進出

復習 1810年代の東南アジア

 ウィーン会議で、オランダ王国が復活。ジャワ島の植民地支配が再開された。土地制度の変更で、王侯貴族が反発。20年代のジャワ戦争につながる。

 今回は、オランダがいなくなった東南アジアにイギリスが進出する過程を見ていきます。

1800年代の国際情勢

 00年代はナポレオン戦争の時代である。ヨーロッパの大部分がナポレオンに征服された。

 東南アジアや東アジアでは、オランダが征服されたことでイギリスが変わりに進出した。日本のフェートン号事件が起きたのもこの時期である。

 中国の清王朝は白蓮教徒の乱をきっかけに衰退期に入る。

ナポレオン戦争とイギリス

ナポレオン戦争とオランダ

 95年、フランス革命の影響を受けて、共和派(王政反対派)が台頭した。共和派は、フランス軍の支援を受けて、国王(オラニエ家)を追放。パタヴィア共和国を建国した。

 99年、パタヴィア共和国はオランダ東インド会社を解散させた。

 06年、パタヴィア共和国を倒し、オランダ王国を復活。ナポレオンの弟が国王になった。

 10年、皇帝ナポレオンは、オランダ王国を崩壊させ、フランスの支配下においた。

オランダ東インド会社の解散

 フランス革命の影響は、オランダを通じて東南アジアへ波及した。

 95年、オランダで王政が停止。オランダ王家は親戚筋であるイングランドへ亡命した。

 このとき、手土産に持っていったのがオランダ東インド会社である。オランダ東インド会社は王家のものである。オランダ王室は、オランダ東インド会社に収益を送るように指示した。しかし、オランダ東インド会社はこれを拒否した。パタヴィア共和国は、オランダ東インド会社を解散した。

ナポレオン戦争

 亡命中のオランダ王家は、これにより困窮。イギリス政府に支援を求めた。イギリスは、イギリス東インド会社を通じて、オランダ東インド会社の拠点を次々攻撃した。長崎のフェートン号事件もその1つである。

 イギリスは、オランダ東インド会社の拠点ジャワ島を一時占領した。

阮朝の成立(ベトナム)

阮朝

 阮朝(ぐえんちょう)は、02年に南北ベトナムを統一した王朝である。1883年にフランスの保護国になる。1954年、インドシナ戦争滅亡した。

 それまで、ベトナムは南北2つの王朝に分かれていた。阮朝が初めてベトナムを統一した王朝になる。また、陳朝が滅亡後は、共和国になるので、ベトナム最後の王朝でもある。

 都は、中部のフエに置かれた。

清王朝との関係

 阮朝は、ベトナムを統一すると清王朝に朝貢を開始した。

 当時の清王朝は、全盛期最後の皇帝である乾隆帝の末期である。衰退期の始まりとなる白蓮教徒の乱が鎮圧された頃である。

フランス宣教師の支援

 阮朝を建国したのは、阮福暎氏である。阮福暎氏は、南ベトナムの豪族で阮一族の残党である。阮一族は、西山の乱で衰退。西山朝の時代は冷遇されていた。

 この阮福暎氏を支援した勢力が2つあった。1つは、隣国タイ(シャム)王国である。

 もう1つは、フランス人宣教師である。当時のフランスはフランス革命とナポレオン戦争の真っ只中である。フランス革命時、カトリックは特権階級として本国では冷遇されていた。

前王朝)西山朝

 阮朝の前の王朝は西山朝(たいそんちょう)である。西山朝は、1778年の西山の乱で成立。清王朝軍を撃退した。