1890年代の東南アジア 米西戦争とフィリピン

米西戦争とフィリピン

アメリカの植民地へ

 98年6月、フィリピンはスペインからの独立を宣言。一方で、アメリカは、米西戦争でスペインに勝利。98年12月のパリ講和条約を締結した。

 この講和条約で、アメリカはスペインからフィリピンを2000万ドルで買い取った。アメリカのマッキンリー大統領は、フィリピンの独立を否定。アメリカ領とした。

 99年2月、アメリカ=フィリピン戦争が勃発。アメリカ軍は2年に渡るゲリラ戦に苦しめられた。01年、独立運動家アギナルドを捕虜。02年、アメリカ軍の勝利で終わった。

門戸開放宣言と中国分割

 98年にフィリピンを植民地にしたアメリカは、かつてのスペインのようにマニラを拠点にして中国との交易を行おうとした。しかし、それはできなかった。

 当時の清王朝(中国)は、95年の日清戦争敗北した頃である。中国分割で、多くの利権を欧米列強に奪われていた。そのため、アメリカ商人が中国交易に参入する余白はなかった。

 99年9月、アメリカは門戸開放宣言を発表。欧米諸国の仲間割れを期待していた。しかし、英仏はファショダ事件の直後。協調路線にシフトしていた。そのため、この時代にはあまり効果を持たなかった。

アメリカ=スペイン戦争

 95年、第二次キューバ独立戦争が勃発。98年、アメリカはキューバにあるアメリカ資本の保全のために、スペインへ参戦。これがアメリカ=スペイン戦争である。

 98年12月、パリ条約で講和した。

  • スペインは、キューバの独立を承認する。
  • スペインは、アメリカに以下のエリアを割譲する。
    • プエルトリコ(中米)
    • グァム(北太平洋
    • フィリピン

アギナルドの独立宣言

 96年8月、独立運動からによる武装蜂起が発生。アギナルドもこれに参加した。96年12月、独立運動家ホセ=リサールが処刑。それでも独立運動は沈静化せず。

 翌97年、スペインは本国から援軍を派遣。97年12月、スペイン総督とアギナルドが取引。独立運動は鎮静。アギナルドは総督からの資金を受け取って香港へ亡命した。

 ただ、独立運動はこれで集結しなかった。翌98年アメリカ=スペイン戦争が勃発すると、アギナルドはアメリカ軍として参戦。フィリピンに帰国。98年6月、フィリピンの独立を宣言。フィリピン共和国を建国。アギナルドは初代大統領になった。

 98年12月、パリ条約でフィリピンはアメリカの植民地になった。99年2月、アメリカ=フィリピン戦争が勃発した。

独立運動家ホセ=リサールの処刑

 フィリピン独立運動の背景には、1人の独立運動家の処刑があった。その処刑された独立運動家とは、ホセ=リサールある。

 ホセ=リサールは、文筆家として名をはせていた。80年代後半からスペイン支配への激しく非難した。

 92年、フィリピン民族同盟を結成。ミンダナオ島へ島流しにされた。95年に第二次キューバ戦争が勃発。96年、ホセ=リサールは軍医になった。

 96年8月、ホセ=リサールの熱狂的支持者によって、フィリピンでも武装蜂起が発生。同96年12月、ホセ=リサールは処刑された。

スペインの最後の植民地

 フィリピンは、キューバなどとともにスペイン最後の植民地である。(2022年大学入試共通テストで出題されている。)

 スペインの植民地政策は、16世紀の大航海時代から始まる。マゼランがフィリピンを発見。16世紀後半にスペインの植民地になった。

 なお、フィリピンは、北のルソン島と南のミンダナオ島を中心に多くの島で構成される島国である。

ラオス

ラオスとは

 ラオスは、半島内陸部の国である。東はベトナム、西はミャンマー、北は中国(雲南地方)、南はカンボジアとタイに囲まれている。

 99年、ラオスはフランス領インドシナ(ベトナム)の保護国になる。これにより、フランス領インドシナ連邦が成立した。

フランス領インドシナ

 フランス領インドシナは、80年代の清仏戦争で勝利したフランス植民地。現在のベトナムである。

 第2次世界大戦中に日本軍が一時占領。1940年代のインドシナ戦争で、ラオス、カンボジア、北ベトナム、南ベトナムの4カ国に分裂して独立した。

イギリスとフランス

 80年代、イギリスは、ミャンマーを併合。フランスがラオスに進出したことで国境を接するようになった。

 タイ王国(シャム王国)のラーマ5世は、当時ラオスの宗主権をめぐりフランスと戦争中であった。そのため、ミャンマーに進出したイギリス(イギリス領インド)に支援を求めた。

 しかし、イギリスはこれを拒否。96年に英仏共同宣言を発表。イギリスとフランスの国境を確定。戦争を回避した。

 余談だが、この2年後の98年にアフリカでファショダ事件が発生。これも回避。04年の英仏協商につながる。

 では、なぜ90年代以降、イギリスとフランスは協調路線を歩むようになったのであろうか。その理由は2つある。1つは、諸民族の反乱である。90年代後半のブーア戦争はその一例である。2つ目は、ドイツ帝国の政策転換である。ドイツ帝国ではビスマルクが引退。ヴェルヘルム2世の世界政策が始まった時代である。

vsタイ

 ラオスが、フランスの植民地になると待ったをかける国があった。タイ(シャム)国王のラーマ5世でである。

 93年、フランス=タイ戦争が勃発。ラーマ5世は、イギリスの支援を求めたが、失敗。タイは敗戦した。

ラオスはなぜフランスの植民地になったのか?

 ラオスは、それまでタイ(シャム)王国の植民地であった。

 19世紀後半に入ると、少数民族の反乱や黒旗軍の侵攻で苦しんでいた。ラオス王国は、タイ王国に援軍を求めた。しかし、タイ王国に援軍を送る余裕はなかった。そのため、代わりに援軍を送ったのが、ベトナムに進出したフランス軍であった。

 以降、ラオス王国は、タイ(シャム)王国ではなくフランスを宗主国とするようになった。

マレー連合州(マレーシア)

 タイ(シャム)王国のラーマ5世が、ラオスをめぐりフランスと戦っている頃、タイ南部のマレー半島(マレーシア)はどのような状況であったのであったのであろうか。

 イギリスは、マレー半島西部(スマトラ島側)にマレー連合週を設立した。一方で、マレー半島北部の民族は、タイ(シャム)王国に従った。

80年代の東南アジア半島部

 80年代は、東南アジアの大陸部は転換期に入る。東のベトナムでは、フランスが清仏戦争に勝利。ベトナムの植民地化が本格化した。一方で、西のミャンマー(ビルマ)では、第3次ベトナム戦争でコンバウン朝が滅亡。イギリス領インドに併合された。

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