18世紀前半の東南アジア 衰退する半島諸国

18世紀後半の東南アジア

 18世紀後半東南アジア。半島部で次々と新王朝が成立する。ミャンマーのコンバウン朝、タイのラタナコーシン朝、ベトナムの西山政権である。

 今回は、これらの国の王朝がなぜ衰退したのかを見ていきます。

18世紀前半の国際情勢

 日本は、江戸時代。生類憐れみの令の徳川綱吉から享保の改革の徳川吉宗の時代である。

 東南アジアの東の中国の清王朝は、康煕帝、雍正帝、乾隆帝の全盛期である。この時期に最大領土に達している。モンゴル、中央アジア(ウイグル、チベット)、雲南地方への遠征が行われた。

 東南アジアの西のインドのムガル帝国は、アウラングゼーブ帝が死去。地方の反乱により分裂状態になる。その混乱に乗じてイギリスとフランスが進出する。

 ヨーロッパでは、フランス国王ルイ14世がスペイン継承戦争で事実上の敗北。フランスの全盛期が終わり、18世紀なかばの七年戦争に向かう。

 フランスの全盛期の終焉に伴い、英仏植民地戦争がアメリカとインドを中心に展開された。

衰退するミャンマーのタウングー朝

コンバウン朝の成立

 52年、タウングー朝が成立した。57年にミャンマーを統一した。建国者はアラウンバヤー氏。都はアラウンバヤーの出身地である中ビルマのコンバウンにおいた。

タウングー朝の滅亡

 コンバウン朝の前にビルマを治めていたのは、タウングー朝である。タウングー朝は16世紀前半に成立。16世紀後半に全盛期を迎えた。17世紀に入ると衰退していった。

 52年、タウングー朝はモン人によって滅亡した。

内乱と3つの民族

 ところで、タウングー朝を滅ぼしたモン人とはどのような民族でしょうか。

 モン人とは、ミャンマー南部の民族である。聖地ダゴン(現在のヤンゴン)や港湾都市ペグーを拠点にした民族である。

 ミャンマーは3つの民族で構成される。南部のモン人、中部のミャンマー人、北部のタイ系民族である。タウングー朝やコンバウン朝は、ミャンマー人の国家である。中部のミャンマー人が南部のモン人を支配する体制であった。

イギリス・オランダの台頭

 モン人をサポートする勢力が存在した。それがイギリスとオランダである。17世紀、イギリスとオランダはミャンマー南部のペグーに商館を築いた。

 イギリスとオランダはタウングー朝に交易を求めたがこれを拒否。タウングー朝は鎖国政策に入った。その後、ペグーはモン人に奪われた。

イギリスとムガル帝国

 インドの北東部でミャンマー国境付近はベンガル地方と呼ばれた。17世紀後半になるとイギリスとフランスが進出した。

 18世紀初頭、アウラングゼーブ帝が亡くなると、ベンガル地方はムガル帝国から独立。ベンガル太守が統治するようになった。

 18世紀半ばの七年戦争の時代に、プラッシーの戦いが起こる。ベンガル太守・フランス連合軍とイギリスとの戦いである。

衰退するタイのアユタヤ朝

国際都市アユタヤ

 18世紀のタイは、アユタヤ朝の時代である。アユタヤ朝は、14世紀に成立。16世紀の大航海時代には、国際商業として栄えた。

フランスの没落

 アユタヤの没落の背景には、フランスの没落がある。17世紀後半、日本の鎖国政策で、アユタヤは衰退傾向にあった。活路を求めたのが、17世紀半ばから海外進出を拡大したフランスのルイ14世である。ルイ14世は、コルベールの重商政策に基づき、フランス東インド会社を再興。インドやアメリカに進出した。

 18世紀にはいり、スペイン継承戦争でフランスが事実上敗北。アユタヤ朝の没落。18世紀なかば、七年戦争でフランスはインドから撤退。アユタヤ朝も67年に滅亡した。

 この当時に、タイに渡ったフランス宣教師がのちに02年のベトナムの阮朝成立を支援することになる。

日本の鎖国政策とジャカルタ

 アユタヤの衰退は、日本の鎖国政策にある。

 16世紀前半、江戸幕府は鎖国政策を実施。オランダと中国以外の船舶以外の来航を禁止された。同じ頃、もう一つの東アジアの貿易相手である明王朝は滅亡。中国南部は混乱し、貿易どころではなかった。この混乱で、東南アジア貿易拠点は、タイのアユタヤからオランダの拠点であるジャワ島(インドネシア)のパタヴィア(現在のジャカルタ)にうつった。

ベトナム黎朝の内乱

概要

 18世紀のベトナムは黎朝(れ朝)の時代である。しかし、この時代に王家には実験がなく、地方の有力武将が政治を取り仕切っていた。

 この有力武将も2人に絞られた。北部の鄭一族と南部の阮一族である。

黎朝

 黎朝は15世紀に成立したベトナムの王朝である。都は北部のハノイに置かれた。当時はトンキン(東京)と呼ばれた。

北ベトナムの鄭氏

 当時の有力武将の1人は鄭一族である。鄭一族は、都ハノイ(トンキン)を中心に北部で実権をにぎり、お飾りの国王が置かれた。

 この時代の黎朝は、政治腐敗が進んでいた。また、大土地所有が進んでいた。そのため、農民は困窮し、農民反乱が続発した。しかし、黎朝は黄金期の清王朝の支援を得ながら農民反乱を鎮圧させた。

南ベトナムの阮氏

 一方、南部は、阮一族が事実上の独立国のように、治めていた。阮一族も、鄭一族と同じ黎朝の旧臣である。中部のフエに拠点をおいて活動した。