1940年代後半の東南アジア
1940年代後半、多くの東南アジア諸国が独立を達成した。
今回のテーマは、第二次世界大戦である。ヨーロッパ諸国の植民地であった東南アジアへ日本軍がどのように侵攻し、東南アジア諸国にどのような影響を与えたかを見ていきます。
日本軍の撤退
日本軍の無条件降伏
45年4月、アメリカに上陸。この頃から、日本の主要都市が空襲される。5月、ドイツが無条件降伏。
7月、アメリカは、イギリス、中華民国(蒋介石政権)と連名でポツダム宣言を発表。8月、ソ連が日ソ不可侵条約を破棄し、日本へ参戦。同じ頃、広島長崎に原爆投下。15日、日本はポツダム宣言を受諾。降伏した。これにより、第二次世界大戦は終結した。
フィリピン陥落
45年1月、アメリカはフィリピンへ上陸。総司令官はマッカーサー将軍であった。2月、マニラが陥落。日本軍はフィリピンから撤兵した。
抗日運動
日本軍は、第二次世界大戦末期になると東南アジアの抗日運動にくるしむようになる。主な抗日運動は、以下の通りです。
- ベトナムのベトナム共産党(ホーチミン)
- フィリピンのフィリピン共産党
- ミャンマーのアウンサン将軍(アウンサンスーチー氏の父)
インドネシアの独立承認
インドネシアは、産油国の1つである。20世紀前半は中東の油田開発が進んでいなかったので、インドネシアは重要な産油国の1つであった。そのため、日本は独立をすぐには承認しなかった。
44年6月、サイパン島が陥落。これによりアメリカ軍が日本本土への空襲が可能になった。日本は劣勢をうけて、9月にインドネシアの独立を承認した。
親日政権の崩壊(タイ)
独立国のタイ王国は、親日のピブン政権の時代である。ビブン政権は、日本陣営で第二次世界大戦に参戦した。
44年6月、日本が劣勢になると、44年7月にピブン政権は退陣した。
日本の独立承認
カイロ会談へ
アメリカとイギリスは、11月にソ連と首脳会談(テヘラン会談)を行う予定であった。大東亜会議の開催を知ると、中華民国の蒋介石とカイロ会談を急遽開催した。
大東亜会議
43年11月、日本の東条英機内閣は、戦争の正当性を示すために大東亜会議を開催した。参加国は以下のとおりである。
- 日本(東条英機内閣)
- 満州国(溥儀国王)
- 中華民国(南京政府の汪兆銘政権)
→米英が支持する重慶の蒋介石政権と戦闘中 - タイ(独立を維持、親日のビブン政権)
- ミャンマー(8月に日本軍によって独立)
- フィリピン(10月に日本軍によって独立)
- 自由インド政府(日本が支援するインドの独立運動)
ミャンマー、フィリピンの独立承認
42年6月、日本軍は、ミッドウェー海戦でアメリカ海軍に敗北。多くの軍艦を失った。
43年8月、日本軍はミャンマー(ビルマ)の独立を承認。43年10月、日本軍はフィリピンの独立を承認した。しかし天然資源に恵まれていたインドネシアの独立は認めなかった。
日本軍の進軍
41年12月、マレー海戦で太平洋戦争が始まる。
42年1月、アメリカ領フィリピンを占領。当時、フィリピンは、アメリカともに独立準備を進めていた。当時フィリピンを守っていたのがマッカーサー将軍である。
42年2月、シンガポールが陥落。日本軍は中国系商人(華僑)に強制献金を求める。また、先住民のマレー人を優遇。これにより、マレー人と華僑の対立がおこった。
42年3月、インドネシアを占領。インドネシアの油田を確保できた。日本は、ジャワ島とスマトラ島の分離政策を行った。
42年5月、ビルマを占領。イギリス(インド)からの蔣援ルートを遮断した。
マレー海戦(太平洋戦争の始まり)
41年4月から、日米の和平交渉を展開していた。しかし、これが決裂。41年12月、太平洋戦争が勃発。東南アジアでも、マレー海戦を皮切りにイギリスと日本との戦争が始まった。
ベトナム進駐
40年8月、ナチスドイツがパリを陥落。フランスに親ナチスのヴィシー政権が成立。翌9月、ヴェシー政権の要請を受けて、日本軍はベトナム北部に進駐。また、この時に、アメリカを仮想敵国とした日独伊三国同盟が締結される。
41年04月、独ソ不可侵条約を受けて、日ソ中立条約を締結。これを利用して、日米交渉(日中戦争の講和交渉)が始まった。翌05月、インドシナ共産党のホーチ=ミン氏がベトナム独立同盟(ベトミン)を結成。インドシナ共産党を中心とした独立運動組織の連合体である。
41年6月、独ソ戦の開始。日米交渉は暗礁に乗り上げた。翌7月、日本は、ベトナム南部へ進軍。8月、アメリカは日本に対して経済制裁(石油の禁輸措置)を実行した。ABCD包囲網である。
11月、アメリカは最後通牒となるハル=ノートを発表。日米交渉は決裂。12月の真珠湾攻撃につながる。
日中戦争と蒋援ルート
日本は、なぜベトナムに固執したのであろうか。それは、ベトナムを通じて、アメリカが重慶の蒋介石政府を支援していたからである。
- アメリカの支援ルート
アメリカ→アメリカ領フィリピン→フランス領ベトナム
→雲南地方→重慶の蒋介石政府 - イギリスの蒋援ルート
イギリス→イギリス領インド→イギリス領ミャンマー
→雲南地方→重慶の蒋介石政府