前回の復習 11世紀の中国
11世紀は、宋王朝の時代である。澶淵の盟により、北方騎馬民族との戦争は終結。しかし、人件費の増大や澶淵の盟による贈与物の負担で財政難になる。これが王安石の改革につながる。これにより、新法派と旧法派の対立が始まる。
10世紀の国際情勢
10世紀の日本は、平安時代中期。摂関政治の全盛期である。『源氏物語』や『枕草子』の作成が始まったのは、10世紀末のことである。
ヨーロッパでは、ノルマン人の侵入により、第二次民族大移動が始まった。
五代十国の戦乱期
概要
五代十国時代とは、唐王朝滅亡から宋王朝の中華統一までの期間におきた戦乱期である。
唐王朝末期に成立した節度使が独立し、地方王朝化した。これが十国である。
07年、朱全忠が唐王朝の皇帝から禅譲をうけて、後梁を建国した。その後、短命の5つの王朝が成立した。これが五代である。最後の王朝(後周)の武将であった趙匡胤(ちょうきょういん)が建国したのが宋王朝である。
この宋王朝が十国を服従させ、中華を統一。五代十国時代は終焉する。
五代
五代は、開封を統治した短命の5つの王朝を指す。ちなみに、王朝を建国したものは前王朝の節度使であった。
唐王朝は、長安に都を置く王朝であった。しかし、8世紀の安史の乱で荒廃。洛陽に都を移した。また、8世紀のタラス河畔の戦いで中央アジア陸上交易はイスラム勢力に奪われた。そのため、商業の中心は、東南アジアや日本などの東アジア交易圏が中心になった。そのため、商業の中心も東に移った。この当時の最大の商業都市は、黄河と大運河の交点に当たる開封(かいほう)であった。
07年、開封の節度使であった朱全忠が唐王朝の皇帝から禅譲を受けて、王朝を開いた。これが後梁(ごりょう)である。都は、開封に置かれた。
23年、トルコ系の節度使が洛陽で蜂起。洛陽に都をおいた唐王朝の名を取り、後唐とした。
36年、後唐王朝の臣下でトルコ系の節度使が、開封で蜂起。唐王朝の前の中華統一王朝である晋から名を取り後晋とした。この蜂起では、北方の騎馬民族であるモンゴル系の契丹人の支援を得た。そのため、契丹に北京周辺(燕雲十六州)を割譲した。その後、万里の長城の内側に侵入した契丹人は、開封に侵攻。後唐を滅ぼし、国号を遼とした。
47年、後漢王朝を建国。都は、開封。トルコ系民族国家。晋王朝以前に存在した長期王朝である漢王朝から名を取った。46年に開封を占領した契丹人は政治力がなかったため、税金の徴収に苦慮した。そして、統治を諦め北方へ帰った。その後に成立したのが、後漢王朝である。
51年、後周王朝が成立。都は開封。漢民族の節度使が建国。漢民族王朝の復活である。2代皇帝世宗が財政改革を実施。遼王朝へ侵攻し、燕雲十六州の一部を回復。仏教の弾圧を実施した。
60年、趙匡胤が禅譲を受けて、宋王朝が建国。60年、後周の2代皇帝が病死。3代目として幼少の皇帝が即位。これに不安を感じた官僚がクーデターを実施して、宋王朝を建国した。
燕雲十六州
燕雲十六州は、中国北部の十六の州である。燕州は、中国東北部で北京周辺である。雲州は、燕州の西部である。
これらの地域は、昔から北方騎馬民族の襲来を受けていた。そのため、春秋戦国時代には、北方に城壁が築かれた。秦の始皇帝が中華統一をすると、この城壁を整備。これが万里の長城である。燕雲十六州は、万里の長城で北方騎馬民族の襲来を食い止めていた。
23年に後唐王朝が洛陽に成立すると、開封の勢力は対抗して後晋を建国。後唐の洛陽侵攻のために北方騎馬民族の契丹人と同盟を結んだ。この時の条件が燕雲十六州の割譲と毎年金と絹を納付することであった。
36年、後晋が契丹人の支援を受けて、洛陽の後唐王朝を滅ぼす。しかし、後晋は約束を反故にする。契丹人は、この報復として、46年、開封の後晋を滅ぼし、遼王朝を建国した。
遼王朝は、その後も燕雲十六州を支配。宋王朝が成立すると、燕雲十六州をめぐり、幾度も戦争が行われた。これが終結したのが、11世紀の澶淵の盟である。これにより、遼王朝は燕雲十六州の支配が確定した。
その後、燕雲十六州は、異民族の支配を受け続ける。遼王朝(モンゴル系契丹人)、金王朝(女真人)、元王朝(モンゴル人)である。漢民族が燕雲十六州を回復するのは、14世紀後半の明王朝の時期である。この地を管理したのが皇帝の弟であった後の永楽帝である。永楽帝が燕州の都燕京に都をおいた。これが現在の北京である。
この明王朝の時代に、万里の長城の改修が行われた。
十国
十国とは、五代十国時代に存在した地方の王朝である。中央政府が短命政権を続けると、地方を管理する余力がなくなった。そのため、地方長官が独自に政治を行うようになった。日本で言う戦国時代のようなものである。日本の戦国時代も、室町幕府の将軍権威の低下によって始まった。
十国の始まりは、唐王朝の節度使まで遡る。
8世紀、府兵制が崩壊。給与で雇う募兵制に変わった。この財源確保で軍隊の司令官に地方の徴税権を与えた。これが節度使である。
節度使が、地方で自律化し、藩鎮と呼ばれるようになる。その後、唐王朝が衰退すると王朝化した。これが十国である。
これらの国は、宋王朝によって滅ぼされた。
宋王朝
建国
60年、後周王朝の2代目皇帝の世宗が崩御。幼少の皇帝が即位。北には遼王朝。近くにはトルコ系節度使が多く、更に南部には十国の有力武人がいた。そのため、幼少の皇帝に多くの人々が不安を感じていた。
そこで、人望が厚く、有力な武人であった趙匡胤を皇帝にする動きが起こる。これにより、禅譲の形で趙匡胤が皇帝に即位。宋王朝が建国した。
76年、弟が2代皇帝太宗が即位。十国を滅ぼして、中華を統一した。
唐王朝と宋王朝
唐王朝 | 宋王朝 | |
律令政治 | 政治 | 文治政治 皇帝独裁 |
漢化した北方騎馬民族 | 王朝の民族 | 漢民族 |
門閥貴族 (九品中正) | 支配層 | 士大夫 (新興地主層) |
長安 中央アジアに近い | 都 | 開封 海が近い |
農業中心 中央アジアを通じた 陸上交易が中心 | 経済 | 商業が発展 東アジア経済圏で 海上交易が中心 |
国際的 | 文化 | 国風 |
中央集権
全般)文治政治
宋王朝の当初の目的は、節度使が建国する十国の滅亡である。そのため、地方に信頼できる武官はいない。そのため、中央集権化を勧めた。
節度使中心の武断政治から文治政治へ転換した。
中央政治)
中央の組織は、唐王朝の時代には、三省六部になっていた。皇帝の命令は、中書省が起草し、門下省でチェックして、尚書省が実行部隊の六部に伝えた。貴族に配慮しなければならい唐王朝は、皇帝側近の中書省と貴族中心の門下省の二院制によって、相互牽制を実施した。
しかし、宋王朝時代には、配慮すべき貴族がいない。そのため、中書省が門下省を吸収し、中書門下省となった。
13世紀に成立した明王朝では、中書省を廃止し、皇帝が直接官僚をコント―ロールした。14世紀の永楽帝は、内閣大学士を設置。皇帝の諮問機関とした。
軍事)皇帝直属の禁軍
唐王朝では、均田制にもとづいて、徴兵制による府兵制が行われた。
しかし、均田制が崩壊。徴兵制から傭兵性へ移行。傭兵を野党資金として、徴税権を軍事司令官に与えた。これが節度使のはじまりである。
宋王朝では、節度使を廃止する。軍隊の中央集権化し、皇帝直属の禁軍に再編成した。禁軍をコントロールしたのが枢密院である。禁軍は、政府の税金で雇われた傭兵で構成された。
役人の採用)科挙
宋王朝では、貴族の存在がいなくなり、科挙で合格した官僚が中心になった。そのため、科挙が重視された。
それに伴い、科挙も厳格化された。趙匡胤皇帝の時代には、皇帝の前で行われる殿試が導入された。
財政難
宋王朝は、禁軍と役人で人件費が増大。国家財政は飛躍的に膨大になった。ただ、商業化が進んだ影響でそれが可能であった。しかし、それでも11世紀には財政難。王安石の改革につながる。
経済)士大夫
士大夫
宋王朝の時代には、唐王朝の貴族に変わって、新興地主層である士大夫が政治の中心に就くようになる。
政治)科挙官僚
唐王朝の時代は、家柄が重視された。
魏晋南北朝時代に成立した人事制度である九品中正の影響が残っていた。九品中正の上級の家柄である貴族が高級官僚を占めた。
唐王朝では、九品中正という推薦制度から、科挙というペーパー試験へ移行した。唐王朝末期には、勉強時間が確保できる富裕層が、科挙に合格。科挙官僚になって、貴族に変わって政治の中心に入るようになった。
一方、日本では、科挙のようなものが浸透せず、位階の制度が存続。藤原摂関家の独裁政治につながった。
経済)新興地主層
中国では、魏晋南北朝時代に均田制が成立した。しかし、8世紀に入ると均田制は崩壊。農民雇って小作料(土地のレンタル代)で生活する地主層(官戸・形勢戸)と土地を地主層に売却し土地を借りて生活する小作人(佃戸)に分かれた。
唐王朝も、8世紀に均田制を放棄。税金を国民全員から徴収する租庸調制度から、地主のみから徴収する両税制に移行した。これにより、地主層の土地保有が公認された。
10世紀には、地主層と小作人の経済格差は拡大していった。
日本でも、8世紀の墾田永年私財法で地主が公認された。10世紀には、かなりの経済力を持った。しかし、貴族は、荘園整理令で荘園の寄進を促進。10世紀初頭には、平将門の乱のような地方の反乱も起きたが、いずれも失敗した。貴族以上の経済力を持つことはなかった。
新興地主層は、在庁官人や武士になった。彼らが政権を担うのは、12世紀末の鎌倉幕府の成立を待たなければならなかった。
文化)儒教が強め
文化の中心も、貴族から士大夫へうつった。彼らは、若い頃に科挙に合格するため大量の文書を暗記した。そのため、儒教が重視された。
契丹人の遼王朝
契丹人は、モンゴル系の民族である。
16年、契丹人の耶律阿保機がモンゴルを統一。
26年、日本海沿岸の女真人の国である渤海を征服。
36年、後代の後晋とともに、後唐を滅ぼす。この時、契丹は、燕雲十六州をもらい、後晋王朝から金と絹をもらうことになった。
46年、後晋が約束を反故にする。これに耶律阿保機が激怒。後晋をほろぼし、華北を支配した。
47年、国号を遼に変更する。しかし、徴税システムが確立できず、契丹人は略奪を繰り返した。これを受けて、トルコ系節度使による後漢が成立。華北の南部を失った。
60年、宋王朝が成立。遼と宋は、華北の北側(燕雲十六州)をめぐり戦争が繰り返された。
1004年、遼王朝軍が、宋王朝の都である開封を包囲。澶淵の盟を結び、戦乱は終結した。
東アジアの状況
唐王朝が衰退すると、東アジアの多くの地域で王朝交代が起きた。日本は、9世紀末に遣唐使を廃止。国風文化が確立する。
- 朝鮮半島 28年、新羅王朝が滅亡し、高麗王朝が成立する。
- 満州 26年、渤海がモンゴル系の契丹によって滅ぼされる。
- 中央アジア(トルコ系騎馬民族) 9世紀半ばにキルギスがウイグルを滅ぼす。ウイグル人は、唐王朝に流入し、節度使になるものも多かった。
- 雲南 37年、南詔から大理へ政権交代。
- ベトナム(東南アジア) 10世紀半ばに独立