10世紀の東南アジア 宋王朝と東南アジア

復習 11世紀の東南アジア

 11世紀、長らく中国の支配下にあった北ベトナムで初の統一王朝が成立。李朝が成立した。一方、諸島部では南インドが侵攻してきた。

10世紀の国際情勢

 10世紀の日本は平安時代である。遣唐使が廃止され国風文化が浸透した。10世紀末に台頭したのが藤原道長である。

 中国は、五代十国の戦乱期がおわる。宋王朝が成立した。

宋王朝とシュリーヴィジャヤ王国

シュリーヴィジャヤ王国

 シュリーヴィジャヤ王国は、7世紀に成立したマレー半島とスマトラ島に渡る王朝である。マレー人の王朝である。

 中心都市は、スマトラ島南部のバレンバンである。シュリーヴィジャヤ王国は、統一的国家ではなく、都市国家の連合体であったとされる。そのリーダー的存在がバレンバンの王であった。

李朝とは

 北ベトナムは、長期にわたり中区王朝の支配下にあった。10世紀初頭に唐王朝が滅亡。北ベトナムには各地でベトナム人の地方政権が乱立した。11世紀半ば、北ベトナムはこれを統一した。

謎の国、三仏斉

 宋王朝の文献によると、東南アジアの三仏斉という国が朝貢をしているとされている。一般的にこの国は、シュリーヴィジャヤ王国ではないかとされている。

イスラム商人の登場

 9世紀に塩の専売が始まると、塩の闇取引が盛んになった。これにより、民間の国内商業は盛んになった。

 10世紀初頭に唐王朝が滅亡。五代十国の戦乱期に入る。朝貢が衰える。成長した中国商人は国際交易に参加。民間交易が盛んになる。

 中国商人の主要な取引相手になったのがムスリム商人たちである。10世紀に入ると多くのムスリム商人が中国南部の港町に集まった。

交易が盛んな宋王朝

 10世紀なかば、宋王朝が成立。しかし、民間交易を禁止するほどの余力はなかった。そのため、市舶司をおいて関税収益を上げるようになった。そのため、10世紀の東アジアの国際交易は盛んになった。ここで巨万の富を得たのが平家である。

占城稲(チャンバー米)

宋王朝に伝わる。

 10世紀末、ベトナム南部のチャンパーから占城稲が伝わる。これにより中国の米の生産量は飛躍的に伸びた。11世紀には長江下流域は大穀倉地帯になった。「蘇湖熟すれば天下足る」と呼ばれたほどである。

チャンバー

 チャンバーは、2世紀末に成立したベトナム中部の国である。インドの影響を大きく受けていた。10世紀に入ると唐王朝の滅亡で北ベトナムが混乱。10世紀末に最盛期を迎える。しかし、12世紀に南のカンボジアでアンコール朝が最盛期。次第に衰退する。

ジャワ島

 ジャワ島中部には、ヒンドゥー教国のシャイレーンドラ朝と仏教国の古マラタム王国があった。しかし、両国は10世紀に衰退。

 11世紀にクディリ王国が成立する。

雲南地方 大理国が成立

 雲南地方は、中国の南西部の内陸部の地域。北にチベット、東に中国(四川省など)、南は東南アジアである。

 雲南では、02年に南詔が内紛で滅亡。その後、短命政権が続いた。

 南詔は、8世紀に建国。9世紀に全盛期を迎える。

 38年、大理国が成立。科挙など唐王朝の制度をベースに統治