12世紀の中国 宋王朝 金王朝と宋王朝

 日本の平安時代末期で、院政が始まり、平清盛など武士が政治に大きな影響力をもちはじめた。日宋貿易も盛んになり、宋の貨幣経済が平家政権を通じて日本に浸透した。
 このころの中国は、契丹族の遼の支配下にあった中国東北部女真族が金を建国。一方で、宋は旧法派と新法派の派閥争いで国力が弱まっていた。金は、宋と連合して遼を滅ぼす。その後、金と宋が対立。金は華北を制圧。金と宋の南北朝時代に入る。

12世紀の国際情勢

 12世紀は十字軍の全盛期である。イスラム社会では、トルコ系のセルジューク朝の勢いが衰え、多くのイスラム教国が乱立していた。そのため、東西の交流はあまり盛んではなかった。

金王朝とは

  15年、契丹族支配下にあった元渤海女真族契丹から独立しを建国。建国者は完顔阿骨打。都は上京会寧府である。
 18年、宋は、勢いがある金と同盟。
 21年、金、宋連合軍が遼を攻め、燕京(のちの北京)を制圧。宋軍はほぼ役に立たず、事実上金と遼の戦争であった。金は、燕京を宋に譲り、物資と民衆のみを持ち帰った。
 25年、金は、契丹(遼)を滅ぼした。遼は中央アジアに逃亡。西遼(カラ=キタイ)を建国。一方で、宋は、遼の残党と組んで金をけん制していた。金は怒り、華北を制圧。宋の都開封を包囲。金と宋は和議を結んだ。
 27年、宋は金との和議を反故にしようとした。そのため、金は開封を占領。金は宋の皇帝や多くの官僚は金へ連行した。逃亡できた一部の宋の皇帝一族が三国時代の呉の都建康(長江)に臨安に都を移して、宋は存続した。53年、金は燕京を中都(現在の北京)として遷都した。

 女真族の金王朝は、宋王朝に対して契丹と同様の贈り物を要求した。そこで赤壁の戦い前の呉のように開戦派と和平派が対立。宋は和平派が勝ち、華北を金、江南が宋が治めることと宋は銀や絹を毎年金に送ることが決められた。

 一方は、北方のモンゴルは、金王朝によってかつての支配者契丹族がいなくなるとモンゴルの部族の間で統一的な動きが起きた。これが13世紀のモンゴル帝国につながる。

米の生産量が向上

 宋の遷都によって江南地域の開発がすすみ、米の生産性がおおきく上がった。このころ、ベトナムからチャンパー米が普及。二期作二毛作が始まったのもこのころである。また、手工業が発達。景徳鎮(けいとくちん)などの陶磁器の生産が始まる。絹織物や漆器の生産も増加。商品作物の茶の生産も増加。宋は茶の専売制をとった。

独自性が高い宋王朝期の文化

 宋王朝期の文化は、唐王朝期と異なり国際性が消え、中国文化の独自性が高まった。文化の中心は、士大夫(したいふ)である。

 士大夫(したいふ)とは、政治的には科挙に合格した上級官僚であり、経済的には新興地主出身。文化的には、科挙に合格できるレベルの儒学や詩文の教養を身に着けた知識人である。

 儒学では、朱子学が大成し、経典としては四書が重視された。

 文学では、古文の復興とともに小説・雑劇が発達。絵画では、院体画や文人画。陶磁器

 仏教では、禅が官僚層に広まる。これは13世紀に日本に伝わり鎌倉新仏教として武家の間に広まる。道教では、全真教が始まる。

 このころの戦争では、火薬が導入された。11世紀に実用化された活版印刷羅針盤とあわせ、イスラム世界を通じてヨーロッパ人伝来。ルネサンスの三大発明につながる。