1800年代の中国 清王朝 新皇帝と宗教反乱

前回の復習 1810年代の中国

 1810年代の中国。清王朝の時代。イギリス人使節アマーストが来日したが、交渉には至らなかった。

1800年代の国際情勢

 日本は、江戸時代後期。三大改革の時代である。寛政の改革がおわり、家斉の大御所政治の時代である。

 ヨーロッパでは、フランス革命が終わり、ナポレオン戦争が展開された。

四川で宗教反乱

嘉慶帝即位

 96年、乾隆帝、没。嘉慶帝が即位した。

 乾隆帝は、1735年に即位。チベット、モンゴル(ジュンガル)を征服。中国歴代王朝の最大版図を獲得した。

 嘉慶帝は、1820年まで、皇帝を続けた。

白蓮教徒の乱

 96年、新皇帝が即位すると、大きな反乱が起きた。白蓮教徒の乱である。

 白蓮教は、仏教の一派である。おもに、民間で広まった。多くの仏教関係者からは邪教と扱われるとこが多い。5世紀に成立。14世紀に紅巾の乱を引き起こした。

 この白蓮教徒の乱が起こったのは、首都北京から最も遠い、内陸部の四川で始まった。

 最初は、正規の警察である緑営が当たったが鎮圧できず。北京から正規軍である八旗を派遣。これでも鎮圧できなかった。最終的には、現地の非正規軍の協力を得て04年に鎮圧した。

 これにより、緑営・八旗の弱体化、清王朝の弱体化を感じさせる事件であった。

福建省の海賊蔡牽

 中国南部の南シナ海沿岸でも、海賊が問題であった。その頭領は、蔡牽(さいけん)であった。蔡牽(さいけん)は、福建省の漁師であったが、94年の大水害で職を失い、海賊に転身した。

 最初に手を組んだのはベトナム北部を拠点とした安南海賊であった。しかし、00年の海賊掃討作戦で安南海賊が壊滅。

 蔡牽(さいけん)が、1大勢力を築いた。南シナ海の制海権を得た。交易のために南シナ海を航行する船から通行税を取っていた。

 07年、清王朝は、蔡牽(さいけん)追討軍を派遣。09年にようやく鎮圧された。

イギリス、マカオ侵攻

マカートニー来航

 93年、イギリス使節マカートニーが来航。熱河で乾隆帝に謁見。しかし、三跪九叩頭の礼を断ったため、交渉まで至らなかった。

モリソン、プロテスタントを布教

 この頃、イギリス人のプロテスタントの牧師が広州とマカオを訪問した。イギリス東インド会社が宣教師を乗せない事になっていた。そのため、アメリカ経由で広州・マカオに訪れた。

マカオ襲撃

 ナポレオン戦争中の07年、イギリスはポルトガル人居住区のマカオを襲撃した。当時のマカオには、蔡牽(さいけん)追討軍がいた。そのため、イギリスは清王朝海軍に撃退された。

 同じ頃、日本の長崎では、フェートン号事件が起きている。

広東互市章程

 09年、広東の互市章程が定められる。