1840年代の中国 清王朝 アヘン戦争に敗北

前回の復習 1850年代の中国

 1850年代、南部で太平天国の乱が発生。その混乱の中、英仏連合軍とアロー戦争で戦うのことになる。

1840年代の国際情勢

 日本は、江戸時代。三大改革最後の天保の改革が起こる。天保の改革の失敗が江戸幕府崩壊の要因になる。

 ヨーロッパでは、フランスの二月革命をきっかけに48年革命が起こる。

 アメリカでは、アメリカ=メキシコ戦争に勝利。獲得したカリフォルニアでゴールドラッシュが起こる。

アヘン戦争

アヘン戦争

 40年、イギリスとアヘン戦争が勃発。42年、アヘン戦争にっ敗北。南京条約を締結した。

原因は、アヘン

 清王朝では、広州周辺での銀流出が問題になっていた。その原因は、麻薬であるイギリス商人が販売するインド産アヘンであった。

 39年、清王朝は、林則徐を広州に派遣し、アヘンの取締を行った。

 林則徐は、イギリス商館を閉鎖。アヘンを没収した。

 パーマストン外相は、清王朝に対して賠償を要求。清王朝の道光帝はこれを拒否。

広州に上陸できず

 翌40年5月、イギリスは、イギリス領インドの海軍を清王朝へ派遣した。林則徐は、沿岸部の防衛を固めていた。

 翌6月、イギリス海軍が広州に到着。ただ、イギリス海軍は、広州に上陸できなかった。

 東へ進み、福建省の厦門(あもい)を攻撃。ここも撃退。

 さらに、東へすすみ、浙江省の杭州でようやく上陸できた。

道光帝が降伏

 7月、イギリス海軍は、杭州から北上。首都北京近郊の天津へ向かった。道光帝は降伏。

交渉決裂

 イギリスは、林則徐を罷免。新しい広州トップを任命。広州で停戦交渉を行った。

 イギリスは、以下を要求した。

  • 賠償金の支払い(アヘンの対価の支払い)
  • 公行の廃止
  • 香港島の割譲

 清王朝は、上の2つを容認した。しかし、香港島の割譲で決裂。アヘン戦争は再開された。

敗北

 翌41年1月、アヘン戦争は再開。広州の虎門砲台を占領。

 道光帝は、交渉が決裂したことを知り、ようやく軍隊を広州へ派遣した。しかし、4月に清王朝軍が広州に到着すると、すでに広州はイギリスの支配下にあった。

 5月、広州では、民間で平英団を結成。独自にイギリスと戦った。しかし、清王朝政府は命令により、解散した。

 7月、イギリス海軍は、上海を占領。南京に入り大運河を閉鎖。清王朝は、降伏した。

南京条約

概要

 42年8月、最後の激戦地南京で講和交渉。南京条約を締結した。

  • 賠償金の支払い
  • 五港(広州、福州、厦門、寧波、上海)の開港
  • 香港島の割譲
  • 公行の廃止
  • 関税自主権の放棄

追加条約

 翌43年に批准。

 同年6月、清王朝は領事裁判権を認める。

 同年10月、虎門寨追加条約で最恵国待遇を認めた。

 この条約は、フランス・アメリカとも結ばれた。