1890年代の中国 清王朝 日清戦争に敗北

前回の復習 1900年代の中国

 1900年代の中国。清王朝の末期。義和団事件に乗じて、ヨーロッパ各国を攻撃するが大敗。多額の賠償金とともに、総理衙門を設置。清王朝は、ヨーロッパと名目上も対等外交が行われるようになった。

 今回は、最後の冊封国を失う日清戦争と、義和団事件のきっかけになった中国分割を見る。

1890年代の国際情勢

 日本は、明治時代。帝国議会が始まった。

 この時期ヨーロッパは、転換期に入った。ドイツのビスマルク宰相が引退。ビスマルク外交による平和な時代は終焉した。列強の間の植民地問題と、植民地の反乱に苦しむ。

日清戦争

甲午農民戦争

 日清戦争は、朝鮮半島をめぐる日本と清王朝との戦争である。

 その始まりは、朝鮮で起きた農民反乱である。94年2月の甲午農民戦争である。朝鮮の閔妃政権は、清王朝に援軍を要請。清王朝は、この援軍に応じる一方で、天津条約に基づき、日本にもこれを通達。日本軍も朝鮮に入った。

 両軍の進軍で、政府は農民軍と講和した。

日本が支援したクーデター

 7月、日本はソウルの朝鮮王宮を制圧。大院君を中心とした政権を樹立した。

光緒帝と西太后

 中国の政治の中心人物は3人いた。皇帝の光緒帝、それまで政治を指揮していた摂政の西太后と軍のトップである李鴻章である。

 李鴻章は、ロシアとの交渉を水面下で行っていた。そのため、ロシアの援軍が得られるシベリア鉄道完成後に戦争を行うべきと考えていた。西太后も戦争に反対であった。しかし、光緒帝は戦争に賛成していた。

清王朝の軍事体制

 清王朝は、正規軍である八旗緑営は機能不全に陥っていた。かわりに台頭したのが、漢人官僚が組織した私兵軍団(豪勇)である。これが表面化したのが、18世紀なかばの太平天国の乱である。その私兵軍団の中心人物が、李鴻章氏である。

 74年、日本の台湾出兵を受けて近代海軍の結成を始める。これが北洋艦隊である。88年、李鴻章をトップとする北洋艦隊が完成。遼東半島の旅順に大規模な軍港を建設し、ここを拠点とした。

下関条約

 日清戦争で北洋艦隊が壊滅。95年4月、下関条約で講和した。

中国分割

三国干渉

 同4月、ロシア、フランスとドイツの在日公使が日本政府に三国干渉を実施。賠償金の上乗せを条件に遼東半島を変換することになった。

中国分割

租借

勢力圏

 勢力圏とは、借金(借款)の見返りに与えらた鉄道敷設権や鉱山採掘権を獲得したことで経済的優位性を獲得した地域である。

中国分割 各国編

ロシア

フランス

ドイツ

イギリス

日本

アメリカの門戸開放宣言

戊辰の変法

立憲革命 戊辰の改革

 康有為ら改革派官僚と光緒帝は、改革運動を開始した。日本を見習って立憲君主制へ移行しようとした。

弾圧 戊辰の政変

 9月、保守派のクーデターで戊辰の変法が頓挫する。その中心人物は、西太后と袁世凱である。袁世凱は、李鴻章の後継者である。李鴻章は01年に亡くなっている。

 光緒帝は幽閉。康有為らは、日本に亡命した。

義和団事件へ

 中国分割によって、外国人がどんどん侵入した。これにより、職を失うものも多くなった。その中心が運輸業者である。鉄道の建設により、物流関係の失業が急増した。

 99年、ドイツの勢力圏である山東半島で義和団が成立。外国人追放運動が始まる。

孫文

ハワイで興中会を結成