1900年代の中国 義和団事件

前回の復習 1910年代の中国

 1910年代の中国。辛亥革命によって清王朝が滅亡。孫文が中華民国を建国。その後、袁世凱政権が成立する。

 第1次世界大戦が始まると、袁世凱政権は、日本から「21箇条の要求」を突きつけられる。袁世凱政権は、一部を除き、これを受け入れた。

 中国国民はこれに憤慨した。

 今回は、滅亡直前の清王朝の様子を見ていきます。

1900年代の国際情勢

 1900年代の日本は、明治時代。日露戦争でロシアに勝利した。

 ヨーロッパでは、英露協商の成立により、ユーラシア大陸全土で展開されたグレート・ゲームは終結。イギリス陣営vsドイツ陣営の第1次世界大戦の構図が完成した。

義和団事件

中国分割

 清王朝は、財政は緊迫していた。95年の日清戦争の賠償金によるものである。そのため、ヨーロッパ各国から借金(借款)を行っていた。

 現在、中国は、借金を担保にアジアアフリカ地域に租借地を持っている。10年頃の清王朝は逆に、ヨーロッパ各国に租借されていた。

義和団事件

 事件が起きたのは、ドイツの勢力圏であった山東半島である。ドイツは運河沿いに鉄道建設を開始した。これにより、運河関連の人々が失業した。

 99年10月、山東半島の民間宗教団体である義和団が蜂起。「扶清滅洋」のスローガンをあげて、外国勢力の排除に動いた。鉄道の破壊を行った。これが義和団の乱である。

西太后は義和団を容認

 翌00年4月、義和団は北京に入る。6月、清王朝政府は、義和団に加勢。外国公使に危害を加えた。6月から始まった清王朝と外国勢力の争いを北清事変という。

 当時の清王朝は、西太后ら保守派が要職を占めていた。

8カ国共同出兵

 当時、イギリスは南アフリカでブーア戦争を行っている真っ最中である。中国に兵隊を送る余裕はなかった。そのため、かわりに日本に出兵を依頼した。日本政府が軍事行動で国際世論で孤立することを警戒。

 イギリスは多国籍軍である日本とロシアを主力にした8カ国連合軍を編成。8月、北京へ侵攻。

 西太后ら清王朝首脳は、北京を脱出。光緒帝と西太后は、西安に逃れた。

北京議定書

 9月、北京議定書が締結。北清事変は講和した。

  • 多額の賠償金
  • 北京と天津(北京近郊の港湾都市)に軍隊の駐屯
  • 総理各国事務衙門の設置 → 対等外交の容認

 

李鴻章の死

 北京議定書で交渉に当たったのは、漢人官僚の李鴻章氏である。李鴻章氏は、政治家、外交官の顔の他、北洋軍閥といわれる華北の傭兵軍団のトップでもあった。

 李鴻章氏は、協調外交政策を取っていた。とくに反英親露の政策を取ることが多かった。

 翌01年、李鴻章氏がなくなる。北洋軍閥を引き継いだのは、中華民国臨時大総統になる袁世凱氏である。

日露戦争時の中国

清王朝 光緒新政(最後の改革)

 西太后らは、北京に戻る。光緒帝は幽閉。西太后と保守派の漢人官僚が実権を握った。漢人官僚の中心に立ったのが、李鴻章氏の後継者である袁世凱氏である。

  • 軍隊の近代化
  • 商業の活性化
  • 教育改革
  • 科挙を廃止

 04年、日露戦争が勃発。翌05年、科挙を廃止。08年9月、憲法大綱を発表。立憲君主制へ移行。11月、光緒帝と西太后が死去。幼い宣統帝が即位。彼がラストエンペラーになることになる。

孫文 中国同盟会

 孫文は、興中会という団体を持っていた。05年、興中会などの中国革命を目指す団体が東京に集まる。ここでけっせいされたのが中国同盟会である。孫文は、中国同盟会のトップになった。

 07年、日本政府は孫文らを国外退去処分。拠点をベトナムのハノイへ移す。11年、辛亥革命が始まると中国へ戻り、翌12年、中華民国臨時大総統になる。

日露戦争

 ロシアは、北京議定書が締結されても中国国内に軍隊を駐屯し続けた。これをイギリスと日本は批判した。

 イギリスと日本は、日英同盟を締結。04年、日露戦争が勃発した。

 05年、ポーツマス条約で講和。日本の朝鮮の保護国化が認められるとともに、ロシアが持つ南満州の権益が日本に譲渡された。