18世紀後半の中国 清王朝 乾隆帝の領土拡大

前回の復習 1800年代の中国

 19世紀は、清王朝の時代である。18世紀末に乾隆帝が崩御。嘉慶帝が即位。ここから、清王朝の衰退の歴史が始まる。その始まりが、四川省の白蓮教徒の乱である。

18世紀後半の国際情勢

 18世紀後半の日本は、江戸時代。三大改革の1つである寛政の改革が行われていた頃である。

 世界は、革命の時代。七年戦争、アメリカ独立戦争が行われ、19世紀末のフランス革命につながる。

最大版図の乾隆帝

乾隆帝

 乾隆帝は、1735年に即位。チベット、モンゴル(ジュンガル)を征服。中国歴代王朝の最大版図を獲得した。

新疆ウイグル

 59年、東トルキスタンを併合した。これが、現在の新疆ウイグル自治区である。ジュンガルが、原住民であるイスラム教徒の

 81年、東トルキスタンでムスリムの反乱が起こる。

ジュンガル(モンゴル)併合

 50年、チベットで反乱

 58年、ジュンガルを滅ぼし、併合した。

 ジュンガルは、モンゴル系の民族で中央アジアを統治。中央アジアの民族からの貢納で栄えた。

乾隆帝の異民族統治

 清王朝は、満州族と漢民族(中国内地、台湾)を直轄領とした。しかし、モンゴル、青海、チベット、新疆(ウイグル)などは、藩部とした。藩部では、現地首長をトップとして統治を行い、現地の伝統文化を維持した。理藩院が藩部の管理を行った。

 理藩院は、16世紀前半にホンタイジが内モンゴルの一部(チャハル部)を征服したときに設置された組織で、六部と同格とされた。

 なお、この他に、朝鮮半島(李氏朝鮮)、ベトナムは朝貢国とされた。

海禁政策(vsイギリス)

マカートニー来航

 93年、イギリス使節マカートニーが来航。三跪九叩頭の礼を断ったが、熱河で乾隆帝に謁見をゆるされた。しかし、交渉まで至らなかった。

海禁政策

 当時の清王朝の交易はどのようなものであったであろうか?

 清王朝は、貿易港を4つに絞り、民間貿易を統制した。上海、寧波、厦門と広州の4港に制限した。

 乾隆帝の時代に入ると、57年に貿易港を広州の1港に限定した。また、貿易は、公行(こほん)という特許商人に限定した。

茶ブーム

 18世紀、イギリスで産業革命が起こる。労働者の間で紅茶の需要が高まった。そのため、中国産茶葉がヨーロッパで売れた。そのため、中国は大幅な貿易黒字が発生。大量の銀が流入した。

 一方で、イギリスは、対中国貿易の赤字が問題になっていた。

四庫全書

 41年、乾隆帝は、中国文書の収集命じた。81年にこの事業が完了した。これが四庫全書である。

 四庫全書とは、古今の中国の文書を書写したものである。経・史・子・集の4つに分類。紫禁城の文淵閣などの全国7つの場所で保管された。

 儒学とは、直接の関係はない。

 明代に成立した儒学の注釈書である四書大全とのひっかけ問題が多いので注意したい。

 ちなみに、明代にも同じことが行われた。こちらは、永楽大典である。

白蓮教徒の乱へ

 95年、在位60年になったので、嘉慶帝に譲位した。日本を含む東アジアでは、暦に十干十二支を使う。60年で同じ干支に戻るので1つの区切りとされていた。現在の日本でも、60歳を還暦として祝うのは、生まれた年と同じ干支(暦)に還るからである。赤いちゃんちゃんこは、赤ちゃんを意味している。

 乾隆帝は、院政を引いたが、認知症のためほぼ政治ができなかったと言われている。

 嘉慶帝が即位した翌年(96年)、白蓮教徒の乱が発生。中国全土に及ぶ大反乱になった。

 80年代、世界的な凶作が起きている。日本では天明の大飢きんと言われている。この凶作はフランス革命の要因にもなっている。

 ちなみに、乾隆帝は、99年に崩御した。

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