1940年代前半の中国 日中戦争から見る第二次世界大戦 

前回の復習 1940年代後半の中国

 45年に日本軍が中国から撤退。蒋介石を中心とした政権ができるはずであった。しかし、国民党と共産党の交渉が決裂。国共内戦に発展。49年、中国共産党は中華人民共和国の建国を宣言する。

1940年代前半の国際情勢

1940年代前半は、第二次世界大戦が行われた時代である。ドイツ陣営とイギリス陣営との戦いである。ソ連は、前半はドイツ陣営についていたが、後半はイギリス陣営にまわり戦勝国となった。

 東アジアでは、ドイツ陣営についた日本軍とイギリス陣営についた中華民国との間で戦いが展開されていた。 

40年の日中戦争の状況

日中戦争とは

 40年の中国は、日中戦争の真っ只中にあった。日本は、中国で2つの勢力と戦っていた。蒋介石率いる国民党政府と毛沢東率いる中国共産党である。

 日中戦争は、37年の盧溝橋事件をきっかけに始まった。

3つの勢力

 日本は、朝鮮半島その北の満洲を拠点に戦争が開始された。北京や南京を効力。主要都市が集中する中国の東側を掌握した。しかし、日本軍が守るには中国は広大すぎた。中国各地で起こるゲリラ戦に苦しんだ。

 蒋介石率いる国民党政府は、南京で日本軍に敗北すると、内陸部の重慶に拠点を移した。イギリスとアメリカは、東南アジア経由で国民党に物資や武器を提供した。

 毛沢東率いる共産党は、北西部の延安に拠点をおいていた。延安は、西安(昔の長安)の北東にある都市である。ソ連の支援を受けていた。最前線に拠点をおいて

ノモンハン事件

概論

 ノモンハン事件は、39年5月に始まった。ソ連軍と日本軍による国境紛争である。ノモンハンは、ソ連の傀儡政権であるモンゴル国と日本の傀儡政権である満洲国の国境にあたる。

前哨戦 張鼓峰事件

 この1年前、日本領朝鮮とソ連の国境紛争が起きた。38年7月の張鼓峰事件である。現在、北朝鮮とロシアは日本海沿岸で国境を接している。この地域は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ロシアと中華人民共和国(中国)の国境が入り組んいでいる。張鼓峰はこの近くにある山である。

 ロシアは、アロー戦争のときに、清王朝から満洲国の沿海部を獲得した。この地域は、沿海州と呼ばれた。また、日本海沿岸に作った軍港がウラジオストークである。これにより、朝鮮とロシアは、国境を接するようになる。

 日本の朝鮮軍は、ソ連軍の国境侵犯の恐れがあるとの情報を得て、偵察部隊を派遣した。これにより、ソ連軍と日本軍(朝鮮駐屯部隊)の武力衝突が起こった。日本は劣勢のため、8月に停戦した。

戦争開始

 39年5月、満洲国とモンゴル国の国境紛争が発生した。満洲国は、日本の傀儡政権で日本の関東軍が駐屯した。一方、モンゴル国は、ソ連の傀儡政権でソ連軍が駐屯していた。

独ソ不可侵条約

 日本は、37年にドイツ・イタリアと日独伊三国防共協定とい軍事同盟を締結した。この時、仮想敵としたのがソ連である。

 7月、アメリカは、日米通商航海条約の破棄を通告。日米対立がついに表面化した。

 8月、日本に衝撃的事件が発生した。それが、独ソ不可侵条約の締結である。同盟国であるドイツが敵国のソ連と中立条約を締結したのである。

 9月、日本は戦争継続を断念。停戦した。これにより、ソ連への侵攻を断念。日本軍は、中国統一に尽力する。

南京の汪兆銘政権

 40年3月、日本は、南京に汪兆銘政権を樹立した。中華民国は、親日派の南京政府と反日派の重慶政府という2つの政権が樹立した。

 汪兆銘氏は、科挙に合格した清王朝のエリート官僚。日本への留学経験をもつ親日派。05年、中国同盟会に参加。そのまま、国民党へ。

 重慶政府が成立すると、蒋介石と対立。38年12月、重慶を脱出し、フランス領インドシナ(ベトナム)のハノイ経由で日本軍が占領した南京に戻った。

 中国民衆の大部分は、重慶国民政府を正統な政権と考えていた。

日ソ中立条約と対米交渉

なぜ、アメリカは日中戦争に介入したのか?

 重慶国民党政府を積極的に応援したのは、アメリカのF=ローズヴェルト民主党大統領である。当時の彼らの支持基盤は、中国人やユダヤ人などの移民が中心であった。貿易や金融に係る人間が多く市場の拡大に積極的であった。

 29年に始まった世界恐慌は、32年にイギリス・フランスがブロック経済政策を実施するとさらに深刻になった。そのため、アジア・太平洋の自由市場の確保に努めた。その中で一番大きな市場だったのが、中国市場である。

 F=ローズヴェルト大統領は、中国市場の自由の守り手として担ぎ上げたのが蒋介石氏である。そして、39年7月、日米通商航海条約の破棄を通告した。

中国共産党の大攻勢

 40年8月、中国共産党の主力部隊、八路軍が中国北部の日本軍へ侵攻していった。

 この後、日中戦争は、非正規の共産党軍と日本軍との戦いになる。

 武器は貧弱であるが、人海戦術とゲリラ戦で抵抗した。とくに、鉄道網や通信網への攻撃が中心で、日本軍に金銭的被害を与えた。

 日本軍は、多くの死傷者を出したが、それ以上に共産党軍は死傷者を出した。

 共産党軍は、民間人のふりをして日本軍に攻撃したので、日本軍は民間人も対象にした掃討作戦「三光作戦」がある。毒ガスなどの非人道的な武器も使用した。これが、今日の中国の反日感情に繋がっている。

北部インドシナ進駐

 9月、日独伊三国同盟を締結。独ソ不可侵条約で混乱した日本とドイツとの関係が修復された。この時、仮想敵にされたのがアメリカであった。

 ドイツは、日独伊三国同盟の見返りに、フランス領インドシナの日本軍駐屯を認めた。

 アメリカは、植民地のフィリピンからフランス領インドシナに上陸。ここから重慶へ物資を供給していた。このルートを援蒋ルートと呼んだ。北部インドシナ進駐で、このルートが遮断。

 フィリピンから、イギリス領のマラッカ海峡を通り、イギリス領ビルマから上陸するルートに変更された。

日ソ中立条約

 翌41年4月、日本はソ連と中立条約を締結。満洲の安全が確保された。

日米交渉開始

 ただ、日本の外務省は足並みが揃っていなかった。松岡外相がヨーロッパでドイツ、ソ連と講和。日中戦争に集中できる体制を整えていた。

 一方、同4月、日本の外務省は、アメリカと日中戦争講和のための交渉を開始した。

武器貸与法

 6月、アメリカは、武器貸与法を制定。蒋介石政府への武器提供を開始した。

 このような中、独ソ戦が開始された。

 日本は、御前会議を実施。南進(中華民国)との戦争を重視。ドイツにもソ連にも中立の立場を取った。ただ、チャンスが有ればソ連に侵攻することも視野に入れていた。

資産凍結

 7月、御前会議に基づいて、べトナム(フランス領インドシナ)南部に進駐。

 これに対し、アメリカとイギリスは、国内の日本資産を凍結した。日本への経済制裁が始まる。

 翌8月、アメリカとイギリスが大西洋上で会談。大西洋憲章を発表した。ソ連は、これに賛同。米英ソの連携がこのときに構築された。

 アメリカは、経済制裁第2段を発表。日本への石油輸出を禁止した。日本のマスコミは、ABCD包囲網として批判した。

 日本政府は、米英海戦を意識。交渉期限を10月に定めた。

日中戦争から太平洋戦争へ

ハル・ノートで決裂

 10月、対米交渉は決裂。

 11月、アメリカは日本にハル=ノートを提示。以下の4つの条件を提示した。

  • 国際法の遵守
  • ベトナムと中国からの撤兵
    • 満洲国については、ここでは表明せず
    • 朝鮮半島の日本統治は容認
  • 汪兆銘の南京政府を否認し、蒋介石の重慶政府を中華民国の唯一の政府として認める。

 この条件は、当時の日本政府には容認できるものではなかった。

真珠湾攻撃とマレー海戦

 12月、交渉が決裂。アメリカとイギリスに宣戦布告。真珠湾攻撃とマレー沖海戦を同時に開始した。以後、主戦場は中国から東南アジアや太平洋に移った。

香港占領

 香港は、当時イギリスの植民地であった。そのため、日中戦争時も日本は香港には手を出さなかった。そのため、3つ目の援蒋ルートとして香港経由で物資が提供された。

 12月、イギリスと開戦。その月のうちに香港を占領。日本は、終戦まで香港を占領。その後、イギリスに返還された。

カイロ会談

日本劣勢

 日本軍は、中国では膠着状態にあった。しかし、太平洋や東南アジアに戦線を拡大。東南アジアを完全に掌握。太平洋の西半分を占領した。

 しかし、42年6月、日本海軍がミッドウェー海戦で大敗。多くの空母を失った。これにより、日本は劣勢になった。

大東亜会議

 翌43年11月、日本は劣勢の打開策を提示した。大東亜会議である。東京に東南アジアのリーダーたちを招集。この戦争の正当性を世界に示した。

カイロ宣言

 米英は、12月にソ連と首脳会談を行う予定になっていた。しかし、大東亜会議を受けて、急遽、中華民国の蒋介石をいれた米英中の首脳会談が行われた。11月のカイロ会談である。

 その後カイロ宣言がまとめられた。その内容は、ハル=ノートよりも厳しい内容になった。

  • 日本は、満洲の他、日清戦争で獲得した台湾と澎湖諸島を中華民国(蒋介石国民党政府)に返還すること。
  • 日本は、1914年(第一次世界大戦)以降に獲得した太平洋上の島嶼の領有権を放棄すること
  • 朝鮮を独立させること

 民族自決の観点で、米英は不利な立場になった。そこで、日本の弱みである朝鮮半島の独立を加えた。

日中戦争に勝利

ポツダム宣言

 45年5月、ドイツが降伏。ヨーロッパ戦線が終結。戦場は東アジアのみになった。

 7月、ドイツ郊外のポツダムで米英ソの首脳会談が行われた。メインテーマは、ドイツの戦後処理であった。サイドのテーマが東アジア情勢であった。

 ここで決まったのが2つである。1つは、8月のソ連の参戦である。当時、ソ連は日ソ中立条約の関係で東アジアに参戦はしなかった。2月のヤルタ会談で参戦は決まっていた。このときに具体的な日時が決定された。

 2つ目は、日本の降伏条件であるポツダム宣言である。領土については、カイロ宣言を踏襲した。この宣言は、米英中の連名で発表。ソ連は、日ソ中立条約の関係で署名に参加しなかった。

 そして、8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾を決定。日中戦争は終結。

中華民国の領土

 日本のポツダム宣言の受諾で、重慶の蒋介石の国民党政府が中国の正統で唯一の政権となった。

 領土は、日清戦争以前の状態に戻った。

国共内戦の再開

 日本軍が撤兵した8月、共産党の毛沢東は重慶の蒋介石と会談。10月、新政権に向けて交渉を開始することが決定された。(双十協定)。しかし、新政権の交渉は決裂。翌46年6月、国共内戦が再開された。