前回の復習 1960年代の中国
1960年代の中国。中華人民共和国の時代である。走資派の劉少奇国家主席の時代。しかし、文化大革命で毛沢東国家主席の時代に戻る。外交では、中ソ対立が続く。
1950年代の国際情勢
日本は、昭和時代。吉田首相や鳩山首相の時代。自民党が成立し、高度成長期に入る。
米ソは、スターリンの死により平和共存路線が始まる。また、朝鮮戦争、インドシナ戦争や第二次中東戦争によって、第3世界が台頭する時代である。
毛沢東国家主席
中華人民共和国建国
49年10、国共内戦に勝利した毛沢東率いる中国共産党が中華人民共和国を建国した。
首都は、清王朝の都のあった北京に首都を置く。毛沢東氏は国家主席(国家元首)の地位につき、首相には周恩来氏が就いた。
一方、国共内戦に負けた蒋介石率いる中国国民党は、台湾で台湾政府を開いている。
第1次五か年計画の成功
毛沢東国家主席は、建国宣言を行うと、モスクワに飛び、スターリンと会談。翌50年2月、中ソ友好同盟相互援助条約を締結。これにより、ソ連の技術者が中国に派遣された。
53年、第1次五か年計画を策定。ソ連の五カ年計画を参考にした。主な政策は2つある。工業化と農業の集団化である。
54年、中華人民共和国憲法が成立した。
57年、第1次五カ年計画が成功に終わる。
大躍進政策の失敗
57年、第1次五か年計画が成功に終わる。これを受けて、翌58年第2次五カ年計画が始まる。これが大躍進政策である。
大躍進政策では、非現実的な鉄鋼と農業の生産性向上を目標にした。工業化では、ソ連に依存しない重工業化をめざした。
農業では、土地・農具・家畜を公有化し、労働に応じた生産の分配を行う人民公社の建設をすすめた。
58年、大躍進政策の影響で飢饉が発生。毛沢東国家主席は辞任し、走資派の劉少奇氏に国家主席の地位を譲った。ただ、中国共産党主席の地位を維持した。党の軍トップが毛沢東氏を批判。これをうけて、党の軍トップを解任。後任についたのが文化大革命を指揮する林彪氏である。
走資派の劉少奇国家主席
59年3月、毛沢東氏は、国家主席の地位を劉少奇に譲った。それでも、毛沢東氏は実権を握った。中国経済が荒廃すると、経済再建が国家課題になった。劉少奇国家主席が託したのが、鄧小平氏であった。
鄧小平氏は、中国経済を再建した。
外交)中ソ対立
国家承認
49年10月、中華人民共和国が建国すると、ソ連などの東側諸国は中華人民共和国の建国を承認した。一方で、アメリカなどの西側諸国は、台湾の蒋介石国民党政府を引き続き正統な国家と見なした。
ただ、イギリスのアトリー政権は、中華人民共和国の建国を承認した。
朝鮮戦争と国連代表権
50年6月、北朝鮮が韓国へ侵攻。安保理で開かれることになった。常任理事国は、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスと中国である。この時、中国の代表権が台湾の蒋介石国民党政府と北京の毛沢東共産党政府のどちらにあるかが問題になった。最終的に、台湾政府が正式国家とみなされた。これにより、ソ連は安保理をボイコット。国連軍の派遣が決定された。
国連軍が韓国に派遣されると、北朝鮮が劣勢になった。中華人民共和国は正式な軍隊を援軍として送れないので、義勇軍を北朝鮮に派遣。
中国の正統国家問題は、51年再び問題になった。これがサンフランシスコ講和条約である。このときは、北京政府も台湾政府もどちらとも呼ばれなかった。日本は、翌52年に台湾と講和条約を締結した。北京政府と講和したのは78年8月になる。
53年7月、板門店で米中が参加した休戦協定が結ばれた。
インド)第三世界のリーダーとして
中華人民共和国は、朝鮮戦争の休戦として大国として認められた。翌54年4月のインドシナ戦争の講和会議(ジュネーブ講和会議)に周恩来首相が参加した。7月に休戦協定が成立した。
この時、インドのネルー首相と平和五原則を発表した。
翌55年、インドネシアのバンドンでバンドン会議を開催。中国とインドのタッグで第三世界が構築されるものと思われた。
しかし、59年にこの2カ国に亀裂が始まった。きっかけはチベットの反乱である。北京政府は、武力で鎮圧した。この時、ダライ=ラマを保護したのがインド出会った。
60年代に入ると、カシミール地方を巡り国境紛争に発展する。
アメリカ)朝鮮戦争と台湾有事
アメリカは、北京政府を認めず、台湾政府を正式な国家として承認していた。
53年、朝鮮戦争が休戦。翌54年、台湾政府と米華相互防衛条約を締結した。55年、台湾政府は、大陸方向に要塞を築く。これにより、台湾問題に緊張が高まった。
58年、中東でイラク革命が起こると、アメリカは強硬外交に転換。これは台湾におおきな影響を与えた。
ソ連)なぜ、中ソ対立が始まったのか?
中ソ対立の始まりは、フルシチョフ書記長のスターリン批判から始まる。53年にスターリンが死去。フルシチョフ氏は書記長に就任。56年にスターリン批判を実施。58年に首相に就任。
ただ、毛沢東がフルシチョフ書記長と対立したのは、スターリン批判だけではない。対米路線にあった。
前述の通り、58年の中国は、台湾問題でアメリカと緊張関係にあった。一方で、ソ連のフルシチョフ書記長はアメリカと平和共存路線を展開しようとした。中ソが対立するのは当然の結果である。