唐王朝は、財政難にあった。玄宗皇帝は、節度使制度を導入した。これにより、事実上封建制度が復活した。8世紀半ばになると、節度使による反乱やイスラム国家の侵攻でさらに衰退した。8世紀後半になると税制を改革。均田制は事実上崩壊した。
国際色豊かな唐王朝の時代が続く。日本では、奈良時代で同じく唐やペルシアの影響を色濃く受けた文化(天平文化)が成立する。
科挙官僚の台頭
712年、玄宗が即位。則天武后の時代が終わり、玄宗皇帝の「開元の治」が始まる。則天武后は、家柄に関係なく実力主義の人事制度をとった。玄宗皇帝もこれを引きついだ。
この時期の科挙の主要科目は漢詩であった。そのため杜甫や李白などの詩人が数多く誕生した。
封建制の復活 節度使の登場
しかし、このころになると唐王朝は財政難に陥っていた。兵役の義務を嫌った農民が多数逃亡した。彼らは、上級官僚の荘園の小作人になった。均田制の問題点は、逃亡農民が増えると財政難になる点にある。
玄宗皇帝は、均田制による府兵制(現在でいう徴兵制)を放棄して、募兵性へシフトした。それが節度使である。節度使は無給どことか兵隊の給料も自分持ちであった。その代わりに、辺境地域の徴税権を与えられていた。封建制の復活である。この結果、唐王朝の税収は大きく減った。一方で、節度使はその後経済力を身に着けて9世紀にはほぼ独立国のようになる。これがのちの十国といわれる。
イスラムの侵攻(タラス河畔の戦い)
8世紀の中頃、世界三大美女の一人楊貴妃が後宮に入る。その結果外戚の楊一族が台頭していく。
そのころ、イスラム教で王朝交代がおこり、シリア系のウマイヤ朝からペルシア系のアッバース朝に代わった。新興イスラム教国家アッバース朝は、唐王朝へ侵攻。唐王朝軍は、イスラムに敗北。(タラス河畔の戦い)中央アジア利権を失う。この時、紙を作る技術がイスラム社会へ伝わった。
節度使の反乱(安史の乱)
755年、楊一族が大臣になると、節度使の一人安禄山が反乱を起こす。(安史の乱)。この戦乱によって長安は焦土と化した。これ以後の歴史で長安が都になることはない。安史の乱は、ウイグル軍の援軍を得てようやく鎮圧された。このころ、ウイグルは、ちょうどこのころ、トルコ系突厥に代わり台頭してきたころである。
税制改革 (事実上の土地の私有を認める。)
節度使への徴税権の譲渡やウイグル・チベットなどの異民族の侵入により、唐王朝の税収はほとんどなくなった。
780年税制改革を行う。北魏から続いていた均田制に基づく租庸調制(家族の人数に応じて税金をかける)方法から財産に応じて税金をかける両税法に変更した。また、漢の武帝時代に行われた塩の専売も復活した。このころになると、均田制は崩壊し、土地の私有が始まった。均田農民の一部は、小作人を雇うようになり地主階級となった。彼ら新興地主層は、10世紀になると形勢戸(けいせいこ)と呼ばれるようになり、宋王朝時代に政治、経済、文化を担うようになる。