4世紀のエジプト コンスタンチノーブル遷都

5世紀のエジプト

 5世紀から6世紀にかけてエジプトを支配していたのは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)であった。宗教ではキリスト教を信仰していた。

 さて、今回、4世紀編からは、東ローマ帝国の前身であるローマ帝国の歴史を見ていきます。

属州としてのエジプト

属州とは

 属州とは、ローマ帝国の被征服地である。皇帝が総督を派遣して統治をさせた。

 属州の人々は、十分の一税が課せられており、徴税請負人がその任務を負った。実際は、徴税請負人が実際の税額よりも多く徴収し、差額を徴税請負人や総督が着服していた。

ローマ帝国下のエジプト

 当時のエジプトは、もっとも豊かな属州であった。ローマ帝国最大の穀倉地帯であるとともに、インドとの交易の拠点でもあった。

 そのため、エジプト総督の地位は権力争いの中心になっていた。

4世紀のローマ帝国

ローマ帝国分裂

 95年、テオドシウス帝が亡くなる。ローマ帝国は2人の兄弟に分割相続された。これが西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)である。

西ローマ帝国は、5世紀に滅亡するが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は15世紀まで続いた。

キリスト教の国教化

 4世紀後半に入ると、サーサーン朝の侵攻とともに、北からゲルマン民族が信仰するようになった。

 78年、西ゴート族(ゲルマン民族)との戦いでローマ皇帝が亡くなる。(アドリアノーブルの戦い)。翌79年、デオドシウスが即位した。

 このころのキリスト教は、アリウス派などの異端もある程度、容認されていた。81年、コンスタンティノーブル公会議を開催。アタナシウス派が改めて正統とされた。アリウス派などの異端の弾圧が徹底された。92年、異教徒禁止令を出し、キリスト教を国教化した。

キリスト教の迫害

 37年、コンスタンティヌス帝が亡くなると後継者争いが始まった。61年、コンスタンティヌス帝の甥であるユリアヌス帝が即位。多神教を復活するため、キリスト教の公認を取り消した。ギリシャ・ローマ時代の文化を復活させることで皇帝の権威を高めようとした。しかし、63年、サーサーン朝との戦争で戦死した。

キリスト教の容認 

 4世紀初頭、ローマ帝国は四分割に統治されていた。その一つで即位したのがコンスタンティヌス帝である。13年、ミラノでキリスト教を公認。キリスト教徒の支持を集めた。それでも反キリスト派も多くいた。24年、反キリスト派の皇帝に勝利。ローマン帝国全土でキリスト教は公認された。

 24年、コンスタンティヌス帝はローマ帝国を統一。翌25年、ニケーア公会議を招集。エジプトのアレキサンドリア教会ではアリウス派とアタナシウス派が対立。この会議でアタナシウス派が勝利。アリウス派はローマ帝国を追放。ゲルマン民族に布教を行うようになる。

 30年、コンスタンティヌス帝はローマからビザンティウムに遷都。経済の中心であるエジプトへの影響力を高めるためであった。

 33年、コロヌス土地緊縛令を出す。これにより、コロヌス制(農奴制)が確立した。また、金貨の鋳造を行った。

エチオピアがスーダンに勝利

エチオピアのアクスム王国

 アクスム王国は、東アフリカ北部の国で成立は不明であるが、紀元前1世紀にはプトレマイオス朝やローマ帝国との交易が行われていた。

 国王はパレスチナのソロモン王の末裔とされている。中東の絵イエメンから渡ってきたとされている。

 3世紀、ローマ帝国が衰退すると、独自にインドと交易を行うようになる。これにより多くの資金を得た。

 50年、スーダンのメロエ王国を滅ぼした。3世紀から4世紀にかけて、キリスト教の国教化が始まった。

 5世紀に入ると、単性説を信仰。ヨーロッパとは異なる宗教をとる。その後、7世紀にイスラム勢力が力をつけると徐々に衰退した。

スーダンのメロエ王国

 メロエ王国は、ナイル川北部にあったクシュ王国の後継国である。紀元前6世紀にメロエに都を置いたことからメロエ王国と呼ばれるようになった。

 黒人の王朝で、プトレマイオス朝エジプトやローマ帝国との交易もあった。さらに、アフリカ内陸部の国々との交易もあり、中継貿易で栄えた。

 50年、エチオピアによって滅亡した。

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