13世紀のエジプト マムルーク朝の成立と 十字軍

14世紀のエジプト

 マムルーク朝は、13世紀から16世紀にカイロに都を置いたエジプトのイスラム王朝である。前回14世紀編は、ペストの流行によりマムルーク朝が衰退していく過程を見ていきました。

 今回は、13世紀のマムルーク朝編。マムルーク朝の成立過程を見ていきます。この時代は、モンゴル帝国や十字軍が登場する激動の時代である。

アッコン陥落

 70年、フランスのルイ9世は再び十字軍を編成した。(第7回十字軍)。ルイ9世はチュニジアに上陸した。しかし、ルイ9世は赤痢にかかり死亡。十字軍はエジプトへ侵攻することなく終了した。

 91年、イェルサレム王国のアッコンを総攻撃、アッコンを陥落、11世紀末に成立したイェルサレム王国は滅亡した。

 ローマ教皇は、これに対してまた十字軍を編成しようとした。しかし、フランスの新国王フィリップ4世はこれに従わなかった。この事件がアナーニ事件につながる。

モンゴル帝国を撃退

バグダード陥落

 13世紀はモンゴルの時代である。エジプトも、モンゴル帝国の侵攻を受けた。

 58年、モンゴル帝国のフラグ氏がバグダード(イラク)を陥落。アッバース朝のカリフを処刑した。

カリフの復活

 60年、マムルーク朝のトップ(スルタン)にバイバルスが即位。

 62年、マムルーク朝は、アッバース朝のカリフと名乗るものを保護。カリフ制を復活させた。その後、聖地メッカとメディナのあるヒジャーズ地方を征服した。

 これにより、マムルーク朝はイスラム教スンニ派の中心的存在になった。

vs モンゴル騎馬軍団

 そのころ、バグダード(イラク)はどのような状況であったのであろうか。60年にフビライがハンに即位。これに対抗する形で、フラグはモンゴル帝国から独立。イランにイル=ハン国を建国した。この時、フラグはキリスト教ネストリウス派を信仰していた。

 60年、フラグがカラコロムへ帰還する際に、部下に命じた。シリアの侵攻を。シリアをめぐり、マムルーク朝とモンゴル帝国が争った。これがアインジャールートの戦いである。マムルーク朝はこの戦いに大勝。モンゴル軍を撃退した。 

マムルーク朝の成立

第6回十字軍

 48年、フランスのルイ9世はエジプトのアイユーブ朝へ侵攻した。第6回十字軍である。

 フランスは、チフスの流行で弱体化。アイユーブ朝はフランスに勝利。ルイ9世を捕虜にするほどの大勝であった。

報酬問題から下克上

 第6回十字軍の主力部隊は、トルコ系軍人奴隷(マムルーク)であった。しかし、アイユーブ朝の王(スルタン)は、近臣たちを優遇し、トルコ系軍人奴隷を冷遇した。当然、トルコ系軍人たちは不満を持った。

 トルコ系軍人奴隷(マムルーク)たちは、クーデターを決行。50年にアイユーブ朝の王(スルタン)を殺害した。この時の首謀者がバイバルスであった。

 クーデターの直後は、マムルーク同士で権力闘争が行われた。しかし、58年にモンゴル軍がバグダードに入城。危機感を覚えたマムルークたちは、バイバルスを中心に団結した。これが60年のアインジャールートの戦いの勝利につながった。

アイユーブ朝とは

 アイユーブ朝は、11世紀に成立したイスラム教スンニ派の王朝。エジプトとシリアを支配していた。建国者はクルド人のサラディンであった。

アイユーブ朝と第5回十字軍

第5回十字軍

 第5回十字軍は、神聖ローマ皇帝(ドイツ)フリードリヒ2世が主導した十字軍である。28年にイェルサレムに向かったが、外交交渉のみで、イェルサレムに入城した。

神聖ローマ皇帝 フリードリヒ2世

 フリードリヒ2世は、南イタリアのシチリア島出身の国王である。幼いころからアラブ人と交流があり、イスラム教への理解もあった。彼は、ローマ教皇インノケンティウス3世の十字群要請を断っていた。そのため、フリードリヒ2世はローマ教皇から破門を受けた。

その頃のアイユーブ朝は

 その頃、アイユーブ朝は後継者争いで内紛が起きていた。エジプト側とシリア勢で対立した。

外交交渉

 29年2月、フリードリヒ2世はアイユーブ朝のスルタンと外交交渉。アイユーブ朝は、領土の内のイスラム教徒の活動を保護することを条件にイェルサレムの割譲を認めた。

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