14世紀のエジプト マムルーク朝の繁栄と衰退

15世紀のエジプト

 マムルーク朝は、13世紀から16世紀にカイロに都を置いたエジプトのイスラム王朝である。前回は、そのマムルーク朝の様子を見ていきました。

 今回は、14世紀のマムルーク朝を見ていきます。前半では、マムルーク朝の衰退要因となったペスト(黒死病)について見ていきます。後半では、カイロに来訪したマリ王国の国王について見ていきます。

ペストの流行

 13世紀後半、モンゴル帝国の影響で東西交流が進んだ。その影響で14世紀半ばに負の部分が発生した。感染症の発生である。

 46年にコンスタンチノーブル(当時はラテン帝国)で流行。翌47年には、エジプトでもペストが流行した。人口が急減した。また、サトウキビや綿花の収穫量も大幅に減少した。

マリ王国

 14世紀前半、マリ王国の国王マンサ=ムーサがメッカの巡礼を行った。このとき、マンサ=ムーサは、カイロに立ち寄り多くの品を買った。これによりカーリミー商人は多くの金を得た。

 マリ王国は、西アフリカの内陸部の国である。ニジェール川の上流にあり、金が豊富に取れた。

その頃の西アジアは

オスマン帝国

 オスマン帝国は、11世紀に活躍したセルジューク朝の一派であるルーム=セルジュークの末裔が建国した国である。

ティムール朝

 14世紀前半、イル=ハン国は王家が断絶。これによりイル=ハン国は地方の有力者によって分割された。

 同じ頃、中央アジアのキプチャク=ハン国も分裂状態にあった。14世紀後半、分裂状態のキプチャク=ハン国に、ティムールが登場した。ティムールは分裂状態のキプチャク=ハン国とイル=ハン国を統一。14世紀には中央アジアから西アジアに広がる大帝国を建国した。

モンゴル帝国(イル=ハン国)

 13世紀末、中東の大国はモンゴルのイル=ハン国であった。イル=ハン国は、中東の雄を目指してイル=ハン国とマムルーク朝は戦っていた。

 イル=ハン国は、マムルーク朝と戦いながら、南のロシアのキプチャク=ハン国とカフカス地方をめぐり戦っていた。そのため、チャガタイ=ハン国とマムルーク朝は同盟を締結していた。

 イル=ハン国は、キリスト教をネストリウス派を信仰していた。しかし、マムルーク朝との戦いが激しくなるとイスラム教徒の協力の必要性を感じた。そのため13世紀末にイスラム教は断絶した。