17世紀前半のエジプト
近代のエジプトは、オスマン帝国の支配下にあった。この時代のテーマはオスマン帝国との関係が重要になる。
17世紀前半、エジプトではオスマン帝国忍耐する反乱が起きていた。この反乱の鎮圧により、オスマン帝国のエジプト統治は確固たるものになった。
今回見る16世紀後半は、エジプトの兵士たちが反乱を行うようになった原因を見ていきます。
価格革命による困窮
16世紀後半の世界
16世紀を一言でいえば、大航海時代である。この大航海時代によって世界は大きく転換した。それはエジプトも例外ではなかった。
大航海時代
大航海時代によって、商業ルートが大きく変わった。これによりエジプトは大打撃を受けた。
大航海以前の交易ルートは、このようなものであった。香辛料などのアジアの品々は、ムスリム商人によってエジプトへ陸揚げされた。それをイタリア商人(北イタリアのヴェネツィアなど)がイタリアへ輸入。これがヨーロッパ各地の富裕層へ販売された。
しかし、15世紀末にパスコ=ダ=ガマがインドに到達するとアジアとの交易はポルトガルが中心となった。とくに15世紀初頭のディブ沖の海戦でエジプト海軍がポルトガル海軍に敗北すると、インド洋交易はポルトガル主導になった。
これにより、エジプト経済は荒廃した。
価格革命
16世紀半ば、エジプト経済を混乱させる事件が起きた。これが価格革命である。
16世紀半ば。スペインは南米でポトシ銀山を発見。多くの銀がヨーロッパに持ち込まれた。これにより銀価格が大暴落。ヨーロッパではインフレーション(価格の大暴騰)が勃発した。これは、エジプトを統治していたオスマン帝国にも影響した。インフレーションによってオスマン帝国が財政難になった。
反乱へ
エジプトの兵士は、オスマン帝国からの給料で生活していた。その給料は銀で支払われていた。銀価格の暴落により、エジプトの兵士たちの生活は困窮した。
16世紀末、オスマン帝国は価格革命により財政難になっていた。そのため、兵士の給料の引き下げを断行した。これにより兵士の不満は爆発。17世紀初頭、兵士たちはエジプト総督を殺害。エジプトの反乱が始まった。
スレイマン1世
16世紀半ば、オスマン帝国はスレイマン1世の全盛期であった。プレヴェザの海戦や第1次ウィーン包囲によってヨーロッパに脅威を与えた。
プレヴェザの海戦で地中海の制海権をえると地中海交易も大きく変わった。オスマン帝国に敗北したヴェネツィアに代わって、同盟国のフランス商人が地中海交易の中心になった。また、イスラム側の拠点もエジプトからシリアに変わった。
スレイマン1世の時代には検地が行われ、スルタンを頂点とした支配構造が確立した。エジプトには強い総督が派遣されてエジプト政治も安定した。