1820年代のエジプト ギリシャ独立戦争

1830年代のエジプト

1830年代のエジプト=トルコ戦争で、エジプトは事実上、オスマン帝国から独立した。今回は、エジプト=トルコ戦争のきっかけとなったギリシャ独立戦争を見ていきます。

ギリシャ独立戦争

概要

 ギリシャ独立戦争とは、1820年代に起きたギリシャがオスマン帝国から独立した戦争である。

影響

 オスマン帝国は、地中海のクレタ島とキプロス島をエジプトに割譲した。シリアは、エジプトへ渡さなかった。これにより、第1次エジプト=トルコ戦争へ投入していく。

ロンドン会議

 29年、オスマン帝国はさきにロシアと講和した。アドリアノーブル条約である。これにより、オスマン帝国は黒海北岸をロシアに割譲した。これにより、オスマン帝国とロシアの関係は親密になった。

 30年、ロンドンで、講和会議を開催。ギリシャの独立は承認された。この会議は、ベルギーの独立を認めた会議でもあった。

経緯と構図

 オスマン皇帝はギリシャの独立運動に、ムハンマド=アリーを向かわせた。オスマン皇帝は、その見返りとして、シリアとクレタ島、キプロス島の行政権を約束した。

 ヨーロッパは、このとき、どのように対応したのであろうか。オーストリアは、ギリシャの独立に反対。神聖同盟もこれに同調した。しかし、神聖同盟を提唱したロシアがギリシャを支援した。南下政策で地中海沿岸のギリシャに港を置きたかったである。このため、神聖同盟はこの戦争で機能しなかった。

 イギリスとフランスは、ロシアの地中海進出を懸念して、ギリシャ支援を表明した。

オスマン帝国中立ギリシャ
エジプトオーストリア
プロイセン
神聖同盟
ロシア
イギリス
フランス

 この戦争時は、ちょうど交通革命の真っただ中であった。大砲を積んだイギリス製の蒸気船がギリシャ軍を味方した。そのため、形成は逆転。27年のナヴァリノの海戦でオスマン帝国海軍が敗北。これにより、ギリシャ独立軍が勝利した。

きっかけ

 きっかけはフランス革命である。14年にウィーンに滞在していたギリシャ人青年を中心に友愛協会を組織した。21年3月に独立戦争を開始。22年には独立宣言を発表した。

フランス vs アルジェリア

概要

 ギリシャ独立戦争が終結した30年、フランスは、オスマン帝国領のアルジェリアに出兵し、アルジェリアを植民地にした。アルジェリアは1962年のアルジェリア戦争までフランスの植民地であった。

アルジェリア

 アルジェリアは、地中海に面したアフリカ北西部の国である。フランスは地中海を挟んで対岸の国になる。

その後のアルジェリア

 フランス王国は、アルジェリアを植民地にすることに成功した。しかし、アラブ人のアブデルカーデルの武装抵抗に悩まされた。

 フランスは、この時もう一つ警戒するものがあった。エジプトのムハンマド=アリーである。アラブ人とムハンマド=アリーが結んでフランスへ侵攻することを懸念していた。また、ムハンマド=アリーも、エジプト=トルコ戦争の真っただ中にあった。そのため、フランスの支援を必要としていた。両国の利害は一致。フランスとエジプトの関係は良好になっていった。

きっかけ

 20年代、アルジェリアはオスマン帝国の領土で、オスマン帝国が太守を派遣していた。フランスも領事を派遣。当時、フランスは小麦の不作が続いていた。そのため、アルジェリアからか麦を輸入していた。両国の関係は良好であった。

 27年、フランス人領事がオスマン帝国の太守を馬鹿にする発言。太守は、領事を扇で殴打した。フランス政府はオスマン帝国に謝罪を要求。しかし、オスマン帝国はこの要求を突っぱねた。この事件を扇の一打事件という。アルジェリアはフランスへの小麦を輸出を停止。

 ギリシャ独立戦争が終結すると、30年軍隊をアルジェリアへ向けた。これがアルジェリア出兵である。

そのころのフランスは?

 当時のフランスは、復刻王政の時代である。シャルル10世の反動政治が行われた。

 パリ市民は、反動政治で不満が高まっていた。アルジェリアとの交易が止まると、穀物価格が高騰。パリ市民の怒りは頂点に達した。これが七月革命につながった。

 七月王政が成立すると、シャルル10世の兵隊を撤兵させず植民地にした。

スーダン遠征

 20年に入ると、ムハンマド=アリーはエジプトの南のスーダンへの遠征を開始した。22年にはスーダン北部を征服した。

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