1830年代のエジプト エジプト=トルコ戦争

1840年代のエジプト

 エジプト王国は、19世紀初頭のエジプト=トルコ戦争でオスマン帝国から独立。1950年代のナセル大統領のエジプト革命で崩壊した。

 エジプト王国は、大きく3つの時代に分けてみることができる。ムハンマド=アリーの時代。イギリスの植民地時代。そして、ワフド党を中心とした自治権拡大の時代である。

 前回は、エジプト初代総督であるムハンマド=アリーについてみていきました。

 さて、今回はエジプトがオスマン帝国から独立するエジプト=トルコ戦争を見ていきます。

第二次 エジプト=トルコ戦争

影響

 エジプトは、この戦争によって事実上の独立を果たした。また、フランスの支援の下に軍備の近代化をさらに進めた。

 オスマン帝国は、エジプト=トルコ戦争の配線をきっかけに西洋化政策(タンジマート)を進める。

ロンドン会議

 ロンドン会議は、旧五国同盟のうちフランスをのぞいたイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンと当事国のオスマン帝国とエジプトで行われた。

 主な決定事項は2つである。一つ目は、シリアの領有権である。シリアは、オスマン帝国に返還された。50年代このシリアにある聖地エルサレムの管理権でクリミア戦争が勃発する。

 この時、エジプトは、ギリシャ独立戦争が獲得したクレタ島・キプロス島も変換している。キプロス島は1870年代のベルリン条約がイギリス領になっている。クレタ島は1910年代の第一次バルカン戦争でギリシャ領になった。

 2つ目は、エジプト・スーダン総督の世襲をオスマン帝国は認めた。エジプトはオスマン帝国領であるが、永久的にエジプト・スーダンを事実上統治できなくなった。

 また、この会議では、オスマン帝国がロシアにみとめていたダーダネルス=ボスフォラス海峡の自由航行権を破棄させた。ダーダネルス=ボスフォラス海峡は、黒海と地中海を結ぶ海峡である。ロシアの黒海艦隊はこれで地中海に出ることができなくなった。

経緯と構図

 第1次エジプト=トルコ戦争は、オスマン帝国側にはロシアが、エジプト側にはフランスがついていた。第2次エジプト=トルコ戦争もこの構図で進んだ。

 この戦争も軍の近代化をすすめたエジプトが優位に進んだ。ここで、待ったをかけたのがイギリスであった。この戦争でエジプトが勝利した場合、地中海はフランス・エジプトが握るとこになるからである。イギリスはオスマン帝国を支援した。プロイセンとオーストリアもこれに同調。

 休戦し、40年のロンドン会議に入った。

イギリス=トルコ通商条約

 イギリスがオスマン帝国を支援したのには、2つの理由があった。1つは、エジプト・フランスの巨大化を懸念した。もう一つがイギリス=トルコ通商条約である。

 オスマン帝国は、イギリスに対して領事裁判権を認め、関税自主権(関税の税率を自由に決める権利)を放棄した。アジアに対する不平等条約の先駆けである。同様の内容を、40年代には清王朝(中国)と、50年代には日本(江戸幕府)と、締結した。

きっかけ

 39年、シリア奪還を目指しオスマン皇帝マフムト2世がエジプトへ侵攻した。しかし、エジプトはこれを返り討ちにし、マフムト2世は戦死した。アブデュルメヒト1世がオスマン皇帝についた。

 戦争に勝利したムハンマド=アリーは、オスマン帝国に対して総督地位の世襲権を要求した。これで始まったのが第2次エジプト=トルコ戦争である。

第一次 エジプト=トルコ戦争

結果

 エジプトが勝利。ムハンマドアリーはシリア総督の地位も獲得した。

経緯と構図

 エジプトは、フランスの支援のもとにオスマン帝国領シリアへ侵攻した。これに対し、オスマン帝国が支援を求めたのはロシアであった。ロシアは、ダーダネルス=ボスフォラス海峡の自由航行権の見返りにオスマン帝国に援軍を送った。イギリスはロシアの地中海進出を警戒し、エジプトが回った。

エジプト陣営は、フランスとイギリスが参加。オスマン帝国陣営は、ロシアが参加した。

 フランスは、当時七月王政が成立したばかりである。アルジェリア植民地経営のため隣国のエジプトの関係を良好にしたかった。

 一方、ロシアの狙いは地中海沿岸に拠点を置くことである。ギリシャ独立戦争を通じてバルカン半島に拠点を築きたかった。しかし、これに失敗。ギリシャと対抗できるオスマン帝国と親しくすることとで、黒海からダーダネルス=ボスフォラス海峡をとおり、シリアに拠点を置くことを画策していた。

きっかけ

 では、なぜ、ムハンマド=アリーはシリアへ侵攻したのであろうか。それは、オスマン帝国が約束を破ったからである。

 エジプト=トルコ戦争以前、オスマン帝国とエジプトの関係は極めて良好であった。ギリシャ独立戦争の際も、オスマン帝国側の主力部隊として参加した。この時、オスマン帝国はクレタ島、キプロス島とシリアの行政権をエジプトに与えることを約束した。

 クレタ島とキプロス島の行政権はエジプトに渡したが、シリアの領有権は渡さなかった。これに起こったエジプトがシリアへ侵攻したのである。

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