1880年代のエジプト ウラービーの乱でイギリスの植民地へ

1890年代のエジプト

 エジプト王国は、19世紀初頭のエジプト=トルコ戦争でオスマン帝国から独立。1950年代のナセル大統領のエジプト革命で崩壊した。

 エジプト王国は、大きく3つの時代に分けてみることができる。ムハンマド=アリーの時代。イギリスの植民地時代。そして、ワフド党を中心とした自治権拡大の時代である。

 1900年代編から、イギリス植民地時代のエジプト王国の様子を見てきています。前回の1890年代編では、イギリスの植民地政策と、アフリカで起きた2つの反乱(スーダンのマフディー教徒の乱と南アフリカのブーア戦争)を見ていきました。

 さて、今回はエジプトがイギリスの植民地以なるきっかけとなったウラービーの乱を見ていきます。

(国際情勢)ビスマルク外交

 まずは、1880年代の国際情勢を見ていきましょう。70年代から80年代にかけて、外交の中心にいたのはドイツ帝国の宰相であるビスマルクであった。

 ビスマルクは、普仏戦争の報復を恐れて、フランスの孤立化政策を進めていた。一方で、イギリスの外交政策は栄光なる孤立であった。基本的にはその他国で同盟関係が結ばれていた。

 一方、ヨーロッパは産業革命の拡大によって、70年代に深刻な不況になった。特に60年代の南北戦争が終結すると安価なアメリカ製品が流入。これにより、自由主義経済は崩壊。多くの国々が植民地拡大へ向った。この政策を帝国主義政策という。

アフリカ分割

70年代のアフリカ

 70年代、イギリス人宣教師のリヴィングストンとアメリカ人記者のスタンリーの探検によって、アフリカ内陸部の実情が次々と明らかになった。

 当時のヨーロッパは深刻な不況に見舞われていた。そのため、ここからアフリカの植民地化競争が始まった。

ベルリン=コンゴ会議

名外交官ビルマルク

 84年、ベルギー国王がアフリカ内陸部の今後の領有を主張。これに対して各国からストップが入った。当時の外交の中心にいたドイツ帝国のビスマルクが調停に入り、ベルリンでが会議が開かれた。これがベルリン=コンゴ会議である。

コンゴ

 コンゴは、アフリカ中央部にある盆地である。赤道直下でコンゴ川が流れている。コンゴ盆地には熱帯雨林が広がっている。

 14世紀にはコンゴ王国が成立。16世紀にはポルトガルが侵攻したがこれを撃退した。

 ベルリン=コンゴ会議では、自由貿易などを条件にコンゴ自由国の建国が認められた。ベルギー国王はコンゴ自由国の国王を兼務。ベルギー政府の影響を受けないベルギー王室の私有地とした。

 その結果、コンゴ経営は残虐なものとなった。オランダのジャワ島(インドネシア)での強制栽培制度をまねして、ゴムの栽培と象牙獲得を現地の人々に強制した。しかも。ノルマを達成できない人の手は切り捨てられた。

早い者勝ち

 ベルリン=コンゴ会議ではアフリカ分割のルールも決められた。ある国が実効支配をしたら、ほかの国は干渉しないことになった。これは、先占権と呼ばれた。

 なお、ここでいう実効支配とは、ヨーロッパの人々が安全に通行や商業を痛める状況を指す。

 この先占権によって、アフリカの植民地化は急速に進んだ。

各国のアフリカの植民地化

 イギリスは、エジプトと南アフリカを拠点に、アフリカ縦断政策を展開した。

 フランスは、北アフリカのアルジェリアと東アフリカのジプチを拠点にアフリカ横断政策を行った。また、かつてのカルタゴであるチュニジアを獲得したことで、イタリアを対立するようになる。

 ドイツは、アフリカの植民地化に出遅れた。ビスマルクはイギリスを刺激しない範囲でアフリカ南部の植民地化を進めた。タンザニア、ルワンダ、カメルーン、トーゴやナミビアなどを植民地にした。

 イタリアは、対岸のリビア(北アフリカ)を植民地にした。一方、東アフリカのエチオピアへ侵攻したが、イタリアの進出をきらうイギリスやフランスがエチオピアを支援したので失敗におわかった。しかし、その近郊のソマリアやエルトリアを獲得した。

 ポルトガルは、15世紀の大航海時代かアフリカ大陸へ進出していた。その中で残ったのがアンゴラやモザンビーク、ギニアであった。

 ベルギーは、前述の通りにアフリカ中央部の今後を植民地にした。

ウラービーの乱

ウラービーの乱とは

ウラービーの乱とは、80年代の起こったエジプトでの立憲革命である。指導者であるウラービーは、英仏の言いなりになっていたエジプト王室を打破して、立憲君主制へ移行しようとした。

 立憲君主制とは、憲法と議会によって王様などの君主の権利を制限した政治体制を言う。王家は存続するも、政策決定は憲法に基づいて設立された議会が行うことになる。

ウラービーとは

 ウラビーは、ウラービーの乱を指揮した指導者である。ウラビーは、農民の子として生まれ、軍人になった。ムハンマド=アリーがなくなり英仏の干渉が強くなると、秘密闕所を組織。81年、エジプト国王を退位させ、実権を握った。

70年代のエジプト

 エジプト王国は、軍隊の近代化やスエズ運河の建設で莫大な対外債務を抱えていた。それでも、60年代は南北戦争による綿花バブルで持ちこたえていた。しかし、70年代に入ると、南北戦争が終結したアメリカ産綿花が登場。綿花価格が大幅に下落。

 75年にスエズ運河株を売却。しかし、それでも返済が滞るようになり、ついにエジプト王室は財政破綻した。76年に、エジプト財政はイギリス・フランスなどの債権国の管理下に置かれた。

 同じ頃、名目上の宗主国であったオスマン帝国は、タンジマートの真っ最中であった。76年にはミドハド憲法が制定されている。しかし、ロシア=トルコ戦争(露土戦争)が勃発すると、ミドハト憲法は停止。スルタンの権限が強化されていた。

経緯

 81年、ウラービーはクーデターを起こし、エジプト国王を退位させた。ウラービーは、新国王の下で陸軍大臣に就任。憲法制定。議会の設置。外国軍隊の撤退を行おうとした。

 イギリス軍は、単独でエジプトへ派兵。ウラービーを逮捕し、ウラービーの乱は鎮圧された。 

その後のエジプト

 エジプトは、その後イギリスの事実上の保護国となった。

その後のフランス

 フランスは、ともにスエズ運河を建設したエジプトの一番の親しい国であった。しかし、70年代、普仏戦争の敗北でフランスは混乱していた。とくにパリ=コミューンは大きな影響を与えた。また、ナポレオン3世が失脚。第三共和政にはいり、植民地拡大にも消極的であった。

 81年にウラービーの乱が発生しても、派兵することなかった。これにより、エジプト経営の主導権はイギリスへ移った。フランスは、ベトナム(東南アジア)とアルジェリア(北アフリカ)の経営に専念することになった。

その後のイギリス

 一方で、イギリスはウラービーの乱によって、エジプトを事実上の保護国にすることができた。これにより、イギリスはインド、南アフリカとともに重要な植民地に指定。3C政策を展開した。

スーダン

 スーダンは、エジプトの支配下にあった。エジプトがウラービーの乱で混乱すると、スーダンではマフディー教徒の乱が発生。この反乱は90年代にようやく鎮圧された。

アラブの民族運動

 ウラービーの乱は鎮圧されたが、その行動は多くのアラブ人に勇気を与えた。これが19世紀末のアラブ民族運動につながった。サウード家ハーシム家が台頭してくるのもウラービーの乱の後である。