1840年代のエジプト ムハンマド=アリー朝へ

1850年代のエジプト

 エジプト王国は、19世紀初頭のエジプト=トルコ戦争でオスマン帝国から独立。1950年代のナセル大統領のエジプト革命で崩壊した。

 エジプト王国は、大きく3つの時代に分けてみることができる。ムハンマド=アリーの時代。イギリスの植民地時代。そして、ワフド党を中心とした自治権拡大の時代である。

 1880年代編から、ムハンマド=アリー朝の時代を見ています。前回は、スエズ運河の建設開始とクリミア戦争を見ていきました。

 さて、今回はムハンマド=アリーが遂に登場します。

ムハンマド=アリーの死

ムハンマド=アリーの死

ムハンマド=アリーは、48年に総督の地位を退位。翌49年に死亡した。40年のロンドン会議で世襲が認められていたので、ムハンマド=アリーの子孫がエジプト総督の地位を世襲した。

ムハンマド=アリーって誰?

 では、エジプト総督になったムハンマド=アリーとは、どのような人物であったのであろうか。

 ムハンマド=アリーは、オスマン帝国下のバルカン半島(マケドニア)出身で、アルバニア人といわれている。なお、のちに直接対決するナポレオンと同い年である。

 貧しい幼少期を過ごし、傭兵になった。18世紀末、ナポレオンがエジプトへ侵攻すると、非正規の傭兵隊長としてエジプトへ向った。ここでの功績を認められ、オスマン皇帝からエジプト総督の地位を授かった。

総督とは?

では、総督とは何でしょうか。goo辞書では、植民地で政務や軍事を司る官職という意味だそうです。明王朝で使われていた地方長官の役職名をあてたものである。

 当時のエジプトは、オスマン帝国の属州であった。オスマン帝国は総督(ワーリー)に統治を任せていた。総督は太守ともいわれ、高級軍人の損傷であるパシャと呼ばれることもあった。

 エジプト総督の決定権は、オスマン帝国にあった。しかし、40年のロンドン会議でムハンマド=アリーが世襲することになった。 

ムハンマド=アリーの政治

 ムハンマド=アリーは、地主層階級のマムルークを一掃し、アラビア人に土地を与える一方で、直接徴税する仕組みを構築した。また、綿花の栽培を奨励。産業革命によって綿花の需要が高まっておりアラビア人を豊かにした。

ロンドン会議

エジプト総督の世襲をみとめる

 ムハンマド=アリーは、エジプトとスーダンの世襲権を認められた。これにより、エジプトは事実上オスマン帝国から独立した。

シリアはオスマン帝国へ返還

 一方で、シリアとパレスチナは、オスマン帝国に返還された。それにより、この地にある聖地エルサレムの管理権をめぐり、50年代にフランスとロシアが戦うことになる。それがクリミア戦争である。

フランスは参加せず

 ロンドン会議は、イギリス主導で行われた。ここには、かつての五国同盟参加国のオーストリア、プロイセンとロシアが参加した。しかし、フランスは参加しなかった。

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