1870年代のエジプト イギリスのスエズ運河買収

1880年代のエジプト

 エジプト王国は、19世紀初頭のエジプト=トルコ戦争でオスマン帝国から独立。1950年代のナセル大統領のエジプト革命で崩壊した。

 エジプト王国は、大きく3つの時代に分けてみることができる。ムハンマド=アリーの時代。イギリスの植民地時代。そして、ワフド党を中心とした自治権拡大の時代である。

 1880年代編から、ムハンマド=アリー朝の時代を見ています。前回は、ウラービーの乱でエジプトがイギリスの事実上の保護国になる過程を見ていきました。

 さて、今回はエジプトがイギリスの植民地以なるきっかけとなったウラービーの乱を見ていきます。

ロシア=トルコ戦争

ウラービーの乱へ

 ではなぜ、ウラービーの乱がおこり、イギリスはこれを鎮圧することができたのであろうか。

 後半の質問は、70年代後半に起きたロシア=トルコ戦争が大きく影響している。この戦争で旧宗主国であるオスマン帝国は疲弊。それによりウラービーの乱にオスマン帝国は関与することができなかった。一方、イギリスはこの戦争でキプロス島を獲得した。この拠点が、ウラービーの乱鎮圧の拠点となった。

ベルリン条約とキプロス島

 ロシア=トルコ戦争に勝利したロシアは、同盟国のブルガリアの国土を拡大。ブルガリア経由で地中海へ進出することができた。この条約はサン=ステファノ条約である。

 これに、イギリスとオーストリアが反発した。ロシアと三帝同盟を結ぶドイツ帝国の宰相ビスマルクは、ベルリン会議を開催。ブルガリアの領土を一部をオスマン帝国へ返還した。一方で、イギリスはキプロス島をオスマン帝国を獲得した。ここがウラービーの乱で重要な拠点となった。

ロシア=トルコ戦争

 ロシア帝国のアレキサンドル2世は、クリミア戦争の復讐戦に燃えていた。農奴解放令で富国強兵に励んだ。70年代に入ると黒海中立宣言を破棄。戦争準備を始めた。千島樺太交換条約で東の脅威を取り除いた。

 76年、オスマン帝国がミドハト憲法を制定すると、ロシアはオスマン帝国へ侵攻した。ロシア=トルコ戦争の始まりである。

 オスマン帝国は、この時ミドハトを追放し、ミドハト憲法を停止した。 

財政破綻とスエズ運河売却

財政破綻

 ここでは、2つ目の疑問。軍人ウラービーはなぜ反乱をおこしたのかの理由を見ていく。

 75年、エジプト政府はスエズ運河株をイギリスへ売却。ししかし、それでも財政は健全化されず。翌76年、財政破綻した。その後、エジプト財政はイギリスやフランスなどの債権国に管理されることになる。

イギリスとスエズ運河売却

 エジプトは、フランスと共同出資して、スエズ運河の建設をかいした。このとき、イギリスは夢物語として投資をしなかった。1869年、スエズ運河は完成した。

 スエズ運河は、エジプトに利益をもたらしたものの財政健全化できるほどの利益は上げられなかった。そのため、財政再建のためにスエズ運河株を売却することになった。

 しかし、スエズ運河株の買収のためには莫大な資金を必要とした。最初に声をかけたのは共同出資者のフランスである。しかし、タイミングが悪すぎた。普仏戦争の敗戦後である。フランスはこれを拒否した。その他のヨーロッパ諸国も70年代のふきょうのめには莫大な資金を必要とした。最初に声をかけたのは共同出資者のフランスである。しかし、タイミングが悪すぎた。普仏戦争の敗戦後である。フランスはこれを拒否した。その他のヨーロッパ諸国も73年の恐慌で二の足を踏んだ。

 そのような中で、手を挙げたのが、イギリスのディズレーリー保守党内閣であった。ディズレーリー首相は、ユダヤ系の資本家ロスチャイルド家が資金を借り入れ、スエズ運河を買収した。

なぜ、エジプトは
財政破綻したのか

(支出)スエズ運河

 財政破綻をとらえるには、支出と収入の両方をとらえる必要がある。19世紀前半、エジプトが軍隊の近代化を図った。最新の軍備をそろえるには莫大な資金を必要とした。

 さらに、69年に完成したスエズ運河の建設に莫大な資金を出資した。そのために大量のエジプト国債がは発行された。

(収入)南北戦争と綿花価格

 エジプトの主要な輸出品は、小麦や綿花などの農産物である。特に綿花は、産業革命によって需要が急速に高まっていた。

 60年代に南北戦争が勃発するとアメリカ産綿花がストップ。綿花価格が高騰。綿花バブルが発生した。この時に英二ぷと政府が大量に国債を発行し、資金を集めた。

 しかし、南北戦争が終結すると、綿花価格が下落。財政は著しく悪化した。さらに、73年の恐慌で国債が売れなくなり、財政破綻へ向っていった。

1870年代の各国

73年世界同時株安

 ドイツアメリカの台頭で、生産が過剰になり投資資金が枯渇。多くの国で株価が暴落。証券取引所が一時閉鎖委になるほどであった。

 ドイツなどは、最新経済学のリストの保護貿易政策を採用。関税の引き上げを行った。この成功体験は、1930年代ブロック経済へとつながる。また、植民地との交易で活路を見出そうと植民地獲得競争へ向った。

共同出資者のフランスは、
 なぜエジプトを支援しなかったのか? 

 フランスは、70年の普仏戦争の敗北でナポレオン三世が失脚。フランスは第三共和政へ移行した。さらに、この混乱期に首都パリでは一時社会主義政権パリ=コミューンに制圧された。

 さらに、フランスは、普仏戦争で多額の賠償金を課せられることになった。当然、エジプトを支援するほどの資金は残っていなかった。

宗主国のオスマン帝国は、
 なぜエジプトを攻めなかったのか?

 では、エジプトの宗主国は、オスマン帝国である。30年代のエジプト=トルコ戦争の報復をする絶好のチャンスである。しかし、それをしなかったのはなぜだろうか。

 オスマン帝国も、財政はひっ迫していた。その理由は、50年代のクリミア戦争の戦費のためである。さらに、70年、ロシア帝国が黒海中立化宣言を破棄。ロシア帝国の南下リスクが高まった。

イギリスは、
 なぜスエズ運河を買収したのか?

 73年の恐慌は、イギリスにも影響を与えた。それでも、イギリスはスエズ運河買収に踏み切ったのは何故だろうか?

 それは、50年代に起きたインドの大反乱である。イギリスはスエズ運河を通じてインドへ軍隊を派遣できる体制を構築する必要があった。さらに、60年代の綿花バブルは、綿花の産地であるインドの重要性を高めた。

 73年の恐慌で、植民地経営の重要性が高まり、インド経営を重要視した。

 イギリスは、スエズ運買収によってインドへの移動時間を大幅に削減した。