1900年代のエジプト
エジプト王国は、19世紀初頭のエジプト=トルコ戦争でオスマン帝国から独立。1950年代のナセル大統領のエジプト革命で崩壊した。
エジプト王国は、大きく3つの時代に分けてみることができる。ムハンマド=アリーの時代。イギリスの植民地時代。そして、ワフド党を中心とした自治権拡大の時代である。
1900年代編から、イギリス植民地時代のエジプト王国の様子を見てきています。
(国際情勢)中国分割
日清戦争と中国分割
まずは、1890年代の国際情勢を見ていきましょう。1895年、清王朝が日清戦争に敗れると、日本への多額の賠償金から中国分割が始まった。これにより、列強の植民化は東アジアやオセアニア地方まで広がった。
ビスマルクの失脚と露仏同盟
1888年、ドイツ皇帝にヴィルヘルム2世が即位。90年、ビスマルクが辞任。ビスマルク外交が終焉した。ここがら、ドイツの外交政策は積極的な世界進出が始まる。
ロシア帝国は、ドイツに再保障条約の更新を拒否された。そのため、露仏同盟が締結された。
また、ドイツは大量に軍艦を建造。イギリスとドイツの間で建艦競争が始まった。
これにより、1900年代初頭には、ヨーロッパは、イギリス、ロシア・フランス(露仏同盟)、そしてドイツの3つの勢力に集約された。
イギリスの植民地政策
90年代のエジプトは、イギリス帝国の植民地であった。では、当時のイギリスの植民地政策とはどのようなものであったのであろうか。
イギリスは、3つの植民地を重要視していた。インド、南フリカとエジプトである。90年代に入ると、エジプトとインド、エジプトと南アフリカを結ぶように植民地を拡大していった。前者は、エンパイア・ルートとよばれ、イランと中東をターゲットにした。一方で、後者はアフリカ縦断政策とよばれた。
ブーア戦争と南アフリカ
19世紀前半の南アフリカ
南アフリカは、15世紀の大航海時代以降、大西洋(ヨーロッパ)とインド洋(アジア)を結ぶ重要な交通拠点であった。最初に入植したのは、ポルトガルでその後オランダの植民地となった。
1815年のウィーン議定書で、南アフリカ(ケープ植民地)は。オランダからイギリスへ譲渡された。ここからイギリス人の入植が始まった。一方で、現地のオランダ人の中には、南アフリカに残る者もいた。彼らはブーア人と呼ばれた。
ブーア人は、英語の強制や奴隷制度の禁止で不満を持った。そのため、北部(内陸部)に自分たちの国を作った。トランスヴァール共和国とオレンジ自由国である。
ブーア戦争前の南アフリカ
60年代に入ると、南アフリカ北部で、ダイヤモンド鉱山が発見された。
69年、スエズ運河が開通。75年、イギリスはスエズ運河が買収に成功。交通の拠点は南アフリカからエジプトへシフトした。現地のイギリス人は、新たな産業として目を付けたのがブーア人が住む北部にあるダイヤモンド鉱山であった。
セシル=ローズ
セシル=ローズ氏は、70年に南アフリカへ渡った。ダイヤンモンド鉱山の経営に成功した。このころ、イギリス本国政府は南アフリカの自治を認め、セシル=ローズ氏は南アフリカの政治にかかわるようになる。また、南アフリカ北部で金鉱山が発見されるとその鉱山経営を独占した。
イギリス本国政府が、南アフリカとエジプトを結ぶアフリカ縦断政策を提唱すると、セシル=ローズはこれを支持した。南アフリカの北、ザンビア・ジンバブエ(当時はローデシア呼ばれていたを併合した。
90年、アフリカ縦断政策の功績が評価され、南アフリカ植民地首相に選ばれた。セシル=ローズは、南アフリカ北部にあるブーア人国家の併合を画策した。しかし、これに失敗。首相を辞任した。
ジョセフ=チェンバレン
セシル=ローズの光景になったのが、ジョセフ=チェンバレンである。ジョセフ=チェンバレンは平和裏にブーア人国家群を併合しようとしたが失敗。98年、ブーア戦争が勃発した。
スーダンとファショダ事件
アフリカ縦断政策
スーダンは、エジプト南隣の国である。現在は別の国であるが。この頃はエジプト王国の支配下にあった。
イギリス本国政府が3C政策(インド、エジプト、南アフリカ)を掲げると、エジプトと南アフリカを結ぶアフリカ縦断政策が始まった。そのルートにあるスーダンは重要視された。
マフディー教徒の乱
80年代、スーダンで救世主を名のる謎の集団が組織された。この組織は、アラビア語で救世主を意味するマフディーを用いてマフディー教徒と呼ばれた。彼らは、エジプトからの独立を目指して活動を開始した。
80年代は、エジプトでも反乱が起きていたため、スーダンの乱は放置された。その後、イギリスもマフディー教徒の乱の鎮圧を始めた。99年にようやく鎮圧された。しかし、この戦いでは、清王朝の太平天国の乱で活躍したゴードン将軍が亡くなるなどイギリスは甚大に被害を受けた。
マフディー教徒の乱が鎮圧すると、南アフリカではブーア戦争が、清王朝(中国)では義和団の乱が発生。植民地の抵抗はなおも続いた。
フランス軍の登場(ファショダ事件)
マフディー教徒の乱で混乱しているスーダンでさらに事件が起きた。これがフランス軍のスーダン侵攻(ファショダ事件)である。
フランスは、1830年代に北アフリカのアルジェリアの植民地化に成功。フランスのアフリカ植民地化はこの地を拠点に始まった。1860年代にスエズ運河が完成。その後、フランスは、スエズ運河の出口にあたる紅海沿岸への植民地化を進めた。90年代、エチオピアとともにイタリアを撃退すると、紅海沿岸のジプチの植民地とした。
しかし、80年代のウラービーの乱でエジプトの植民地化が失敗した。そのため、アルジェリアとジプチを結ぶアフリカ縦断政策が始まった。そして、98年フランス軍はスーダンに入った。
このファショダ事件は、99年の政府間交渉で解決。フランスはスーダンから撤退。代わりにコンゴの一部を獲得した。
では、フランスはなぜ、スーダンを撤退を決めたのであろうか。1つ目は、フランス国内の問題である。ドレフュス事件で政治不安が拡大。イギリスとの全面戦争の支持が集めきれなかった。2番目は同盟国ロシアである。ロシアは、すでに日露戦争直前の状況下にあった。そのため、フランスとイギリスの全面戦争に援軍を送る余裕はなかった。最後は、スーダンの状況である。仮に、イギリス軍に勝利したとしても、そのあとにはマフディー教徒との戦いが待っていた、フランスにはこの2つの戦争を遂行する余力はなかった。
なお、イギリスとフランスの政府間交渉は続き、04年の英仏協商につながる。
(中東)3B政策
3C政策と中東
イギリスは、アフリカ縦断政策を展開するとともに、インドとエジプトを結ぶエンパイア・ルートの確保も進めていた。インド~イラン南部~イラク(バグダード)~シリアorヨルダン~パレスチナ(現在のイスラエル)~エジプトである。すでにイランまでは、カジャール朝から勢力圏を獲得していた。残るエリアは、オスマン帝国の支配下にある、イラクからパレスチナまでのルートの確保にあった。
新たな敵、ドイツ
しかし、オスマン帝国はイギリスと対立する道を選んだ。ドイツ帝国に対してバグダード鉄道の敷設権を与えた。
これにより、イギリスは、アラブのハーシム家を担いでオスマン帝国と戦うことを選択することになった。これが本当に火を噴いたのが第一次世界大戦である。