紀元前2世紀のエジプト 衰退するプトレマイオス朝

紀元前1世紀のエジプト

 エジプトは、紀元前1世紀にローマの属州になっている。1世紀から6世紀にかけて、ローマ帝国の属州としてエジプトの歴史を見ていきました。

 今回は、古代エジプトの最期の王朝であるプトレマイオス朝を見ていきます。

プトレマイオス朝とは?

アレキサンダー大王

 プトレマイオス朝は、紀元4世紀末に成立したエジプトの王朝である。初代の王は、プトレマイオス1世である。彼は、アレキサンダー大王の後継者の一人である。

アレキサンドリアの繁栄

 プトレマイオス1世は、新たな都アレキサンドリアを建設した。アレキサンドリアは、政治や軍事・学問、芸術面でもっとも繁栄した都となった。

 アレキサンドリアは、これまでのエジプトの文化とギリシャの文化が融合した。

ポエニ戦争とエジプト

ポエニ戦争とは

 ポエニ戦争とは、紀元前3世紀半ばから紀元前2世紀半ばにかけて西地中海でおきた戦争である。共和政ローマ(イタリア)とカルタゴ(チュニジアにあったフェニキア人国家)が争った。

 紀元前2世紀末の第2回ポエニ戦争では、共和政ローマはスペイン(ヒスパニア)を獲得した。

マケドニア戦争

 紀元前200年、ギリシャの北にあったマケドニア(アンディゴノス朝)はシリア(セレウコス朝)と同盟。ギリシャの人々はこれを脅威に感じ、共和政ローマに支援を求めた。

 当時の共和政ローマは、第2回ポエニ戦争に勝利し乗りに乗っていた。ローマは、マケドニアに勝利し、ギリシャの平和を守った。

 紀元前171年、マケドニアはローマへ侵攻。共和政ローマはこれを返り討ちにし、マケドニアを滅亡。マケドニアを植民地にした。

カルタゴ滅亡(第3回ポエニ戦争)

 紀元前3世紀末の第2回ポエニ戦争で、共和政ローマはカルタゴに勝利。共和政ローマは交易相手国としてカルタゴを存続させた。

 しかし、紀元前2世紀半ばになると格差の問題から共和制への不満が高まっていた。

 紀元前149年、カルタゴは北アフリカのローマの友好国へ侵攻した。これを口実に共和政ローマはカルタゴに侵攻。紀元前146年、カルタゴは滅亡した。

衰退するプトレマイオス朝

シリアを失う

 紀元前3世紀末、プトレマイオス朝は第5次シリア戦争に敗北。シリアをセレウコス朝シリアに奪われた。また、東地中海の制海権もアンディゴノス朝マケドニアに奪われた。

共和政ローマとの関係

 マケドニア戦争でローマが東地中海へ進出した。エジプトは共和政ローマを好意的に迎えた。

ロゼッタストーン

 紀元前196年、プトレマイオス5世の徳をたたえる石碑が作られた。この石碑は3つの言語がで書かれた。神聖文字、民用文字とギリシャ語である。

 この石碑は、18世紀末のナポレオン遠征時に発見された。この石碑の発見によって神聖文字の解読が進んだ。

内戦

 紀元前2世紀半ば、プトレマイオス朝のプトレマイオス6世はの娘をセレウコス朝シリアに嫁がせた。そのセレウコス朝で宮廷紛争が発生。プトレマイオス6世は、娘の救出のために出兵。戦死した。

 プトレマイオス7世が即位。これを支えたのが、母であるクレオパトラ2世である。エジプト民衆の支持を集めた。

 しかし、これに待ったをかけたのがプトレマイオス8世である。プトレマイオス8世は現国王プトレマイオス7世を殺害し国王に即位した。しかし、国民の支持が得られずエジプトから亡命。

 クレオパトラ2世とプトレマイオス8世の権力闘争が続くことになった。