前回の復習 12世紀のスペイン
中世のスペインは、レコンキスタの時代である。これは、15世紀末にスペインがイスラム教国を滅ぼすまで続く。
12世紀は、ポルトガルの成立により、カスティーリャ王国とポルトガルが対立。これにより、レコンキスタはそれほど進んでいない。
11世紀の国際情勢
11世紀、日本は平安時代。藤原道長の摂関政治全盛期から院政の時代へ行こうした。
ヨーロッパは、ナポレオン戦争の時代。
ムラービト朝の成立
ムラービト朝の建国
56年、モロッコにムラービト朝が成立した。モロッコは、アフリカ北西部で、当時は、アルジェリアなどを含めてマグリブ地方と呼ばれていた。
ムラービト朝は、遊牧ベルベル人の国家である。厳格なスンニ派の国である。
ベルベル人とは
ベルベル人とは、マグリブ地方(モロッコ・アルジェリアなどのアフリカ北西部)の先住民である。7世紀にアラブ人が侵入し、アラブ人の支配をうけた。これにより、イスラム教を進行するようになった。
30年、遊牧ベルベル人がメッカに巡礼に向かった。11世紀初頭のメッカに巡礼。このとき、厳格なスンニ派の学者を連れて帰った。これにより、遊牧ベルベル人は、厳格なスンニ派になった。そして、56年にムラービト朝を建国した。
では、厳格なスンニ派の学者がなぜ田舎のモロッコへ向かったのであろうか。当時、シーア派のブワイフ朝の時代である。厳格なスンニ派の人々はこの状況を否定的に見ていた。そのため、辺境な地域に救いを求めていた。16世紀にイエスズ会のように。ちなみに、十字軍のきっかけになったセルジューク朝が中央アジアで建国したのも、38年である。
都マラケシュの建設
ムラービト朝は、建国すると都の建設を行った。これがマラケシュである。70年頃に都マラケシュは完成した。
マラケシュは、以後ムワッヒド朝、マリーン朝などの歴代モンゴル王朝に引き継がれていく。
アフリカへ進出
ムラービト朝は、建国すると周辺地域へのスンニ派を布教するために各地へ精選(ジハード)を展開した。最初に展開したのは西アフリカの内陸部である。
アフリカは、川を中心に展開された。西アフリカでは、イスラム以前は、ニジェール川沿って発展した。
7世紀には、トンブクトゥに都を置く、ガーナ王国があった。金や岩塩の輸出で豊かになった。この輸出は支えたのが、モロッコに進出したムスリム商人たちである。
76年、ムワービト朝がガーナ王国へ侵攻。これにより、ガーナ王国は衰退。侵攻したムワービト朝もレコンキスタやノルマン人の侵攻でアフリカ内陸部の統治は疎かになり、事実上分裂状態になっていた。この状態は、13世紀にスーダンから進出したマリ王国が成立するまで続く。
イベリア半島へ侵攻
一方で、スペインの南部のイスラム勢力は、30年の後ウマイヤ朝の滅亡で分裂状態になっていた。ここへ侵攻してきたのがキリスト教の国々である。
85年、カスティーリャ王国が中央部のトレドを回復すると、危機感を持ったイベリア半島のイスラム教徒たちは、モロッコのムラービト朝に応援要請をした。
86年、ムラービト朝は、キリスト教の勢力を撃退した。
このとき、厳格なスンニ派のムラービト朝の人々は、堕落したイベリア半島のイスラム教徒の人々に激怒。スペインのイスラム教諸国を次々征服し、ムラービト朝がスペインのイスラム勢力を統一した。
キリスト教国の台頭
キリスト教国の台頭とレコンキスタ
10世紀まで、スペインのキリスト教勢力は北部の小国に過ぎなかった。11世紀に入ると、農業技術の向上でキリスト教圏の人口が急増。国土の拡大に務めるようになった。この拡大運動は3つある。
- 中東へ向かった十字軍
- 東欧へ向かった東方植民
- スペインへ向かったレコンキスタ(国土回復運動)
アラゴン王国の成立
アラゴン王国は、35年にナバラ王国から独立した。
12世紀に、カタルーニャと合同。15世紀にカスティーリャ王国と合同しスペインになる。
カスティーリャ王国とトレドの回復
カスティーリャ王国は、レオン王国のカスティーリャ伯領が始まりである。10世紀に事実上独立した。
29年、カスティーリャ伯が暗殺。ナバラ王国に併合される。
35年、ナバラ国王が崩御。分割相続により、アラゴン王国などとともにカスティーリャ王国が成立した。
37年、レオン王国を併合。カスティーリャ=レオン王国になる。
85年、分裂状態になったイスラム勢力下の南部に侵攻。トレドを獲得した。トレドは、西ゴード王国の都でイベリア半島の中央部にある。トレドには、多くのアラビア語の文献とアラビア語のわかるキリスト教徒が多くいた。これにより、12世紀ルネサンスが始まる。
聖地 サンティアゴ=デ=コンポステーラ
カスティーリャ王国は、元々スペイン北西部のガリシアの国である。このガリシアには、聖地サンティアゴ=デ=コンポステーラがある。
11世紀初頭、ナバラ王国の領土がガリシアに及ぶと、フランスから聖地サンティアゴ=デ=コンポステーラへの巡礼が盛んになった。当時旅行ができたのは騎士階級などの領主そうであった。とくにクリュニー修道会は多くの巡礼者を送った。
カスティーリャ王国は、多くの巡礼者によって豊かになった。巡礼者の中には、レコンキスタに参加するものも現れた。軍事力と経済力を得たカスティーリャ王国は85年にトレドを回復。レコン金スタの中心的存在になった。
一方、サンティアゴ=デ=コンポステーラへの巡礼はその後の拡大したが、14世紀にフランスで百年戦争が始まると衰退した。
現在、聖地サンティアゴ=デ=コンポステーラは世界遺産に登録されている。この世界遺産にはフランスからの巡礼路も含まれている。
ナバラ王国の全盛期
11世紀初頭に、サンチョ3世がナバラ国王に即位。カスティーリャ伯の娘と結婚し、カスティーリャ伯領を併合。スペイン北部を統一した。
35年、ナバラ国王サンチョ3世が崩御。分割相続により、ナバラ、カスティーリャとアラゴンに分裂した。新ナバラ王国はその後に衰退。アラゴン王国に併合される。
後ウマイヤ朝の滅亡
ムラービト朝へ
11世紀まで、スペインを支配していたのはイスラム教国の後ウマイヤ朝である。31年に後ウマイヤ朝が滅亡。スペインにあるイスラム勢力は分裂状態になっていた。
危機感を持ったのは、85年である。カスティーリャ王国がトレドを占領した。危機感を抱いたイスラム勢力に支援を求めた。それが、モロッコの新興国であるムラービト朝である。
86年、ムラービト朝はスペインに上陸。カスティーリャ王国などのキリスト教勢力を撃退。12世紀レコンキスタはそれほど進まなかったのはムラービト朝の影響も大きい。
ムラービト朝は厳格なスンニ派の国家である。一方で、スペインのイスラム勢力は堕落していた。ムラービト朝は、堕落したイスラム勢力を次々滅ぼし、スペインは、ムラービト朝の支配下に入った。
イスラム勢力の分裂とレコンキスタの始まり
31年、後ウマイヤ朝が滅亡。原因は内紛であった。その後、スペインのイスラム勢力(アンダルス)は、分裂状態になった。これらの国々はタイファ諸国と呼ばれた。
このようにイスラム勢力が分裂状態になると、キリスト教勢力が南下を始めた。レコンキスタが本格的になる。
85年、カスティーリャ王国がトレドを占領すると、レコンキスタは新たな展開を迎えた。
後ウマイヤ朝の滅亡
31年、後ウマイヤ朝は滅亡した。その要因は、02年までさかのぼる。
02年、カリフ(国王)が崩御。有力者(豪族)による権力闘争が発生。29年の間に10人のカリフが擁立されては廃位させられた。31年、カリフが配位させられると、新カリフを擁立できず、後ウマイヤ朝は滅亡した。
後ウマイヤ朝が滅亡すると、それぞれが独立した。これがタイファ諸国である。
有力者(豪族)たちは、出身地によって大きく2つのグループに別れた。シリア出身のアラブ系とモロッコ出身のベルベル人系である。
後ウマイヤ朝とは
後ウマイヤ朝は、8世紀に成立したスペイン(イベリア半島)に拠点をおくイスラム教国である。10世紀前半に全盛期を迎え、カリフを自称した。