前回の復習 13世紀のスペイン
中世のスペインはレコンキスタの時代である。イスラム勢力とキリスト教徒勢力が争っていた。
キリスト教勢力は主に3つの勢力に分かれていた。東から、アラゴン王国、カスティーリャ王国とポルトガル王国である。アラゴン王国は、13世紀に南イタリアへ進出した。
レコンキスタでは、モロッコのムワッヒド朝をイベリア半島から追放。残されたイスラム教徒はナスル朝が統一。最後の抵抗が始まった。
12世紀の国際情勢
12世紀。日本は、平清盛の時代である。
中国は、南宋の時代。北半分が女真族の金王朝に奪われていた。
中東とヨーロッパの間では十字軍遠征が展開されていた。
ポルトガル王国の成立
ポルトガル王国
43年、ポルトガルが成立した。
イベリア半島は、北西部のカスティーリャ王国を中心にレコンキスタが展開された。その過程でポルトガル北部もカスティーリャ王国に支配に入った。
そこの統治を任されたのがフランス(ブルゴーニュ)出身の騎士、エンリケである。エンリケはポルトガル伯になった。これがポルトガルの語源である。
12世紀初頭、エンリケの子、アルフォント=エンリケスが自ら王と名乗った。事実上のカスティーリャ王国からの独立宣言である。これにより、ポルトガルとカスティーリャ王国の戦争が始まった。
43年、ローマ教皇の仲介で終結。これにより、ポルトガルはカスティーリャ王国から独立した。
リスボンの獲得
カスティーリャ王国から独立した4年後の47年、ポルトガルは、イスラム勢力(ムワッヒド朝)からリスボンを奪還した。
リスボンは、現在のポルトガルの首都である。当時からリスボンは大西洋に面した良港であった。ポルトガルは13世紀半ばに首都をリスボンに移した。
ポルトガルのリスボン攻略を支援したのは、イングランド(イギリス)であった。イングランドは11世紀半ばのノルマン・コンクエストで成立した新興国である。30年、ローマ教皇の要請でイスラム勢力から、南イタリアのシチリアを奪還。シチリア王に任命された。その後、イタリア半島南部や北アフリカのチュニジアを征服。両シチリア王国と呼ばれる。そのため、イングランドにとってリスボンは、イングランドと南イタリアを結ぶ重要な寄港地であった。
イングランドは54年にプランタジネット朝が成立。イングランド国王でありながら、フランスの西半分を領有する有力諸侯になっていた。89年、第3回十字軍では、神聖ローマ皇帝やフランス国王とともにイングランド国王も参加している。
ポルトガルに話を戻す。ポルトガルは、79年にローマ教皇アレクサンドル3世からポルトガル王に任命。ポルトガルは王国に昇格した。
カスティーリャ王国からの独立
カスティーリャ王国は、11世紀、レコンキスタによって順調に南下を勧めていた。しかし、12世紀に入ると、ポルトガルの独立問題でレコンキスタは停滞した。
13世紀に入ると、ローマ教皇インノケンティウス3世の仲介でカスティーリャ王国とポルトガル王国は和解した。これにより、13世紀からレコンキスタは順調にに進み、15世紀末に、レコンキスタは完了する。
トレドと大翻訳時代
12世紀ルネサンス
カスティーリャ王国は、ポルトガルとの戦争。レコンキスタと並行して、もう1つの事業がおこなれていた。これがアラビア語の文献の翻訳であった。
イスラムでは、「知恵の館」を中心に古今東西の文献をアラビア語に翻訳していた。特に多かったのがギリシャ語(コイネー)で書かれた文献である。これにより、古代ギリシャの文化や科学技術を入手することが可能になった。そのため、この研究は「12世紀ルネサンス」とも呼ばれる。
中心はトレド
この翻訳事業の中心は、トレドという街である。トレドは、川に囲まれた島に作られた街である。古代は、西ゴード王国の首都であった。
中世、イスラムの勢力下に入るとキリスト教徒の居住区やユダヤ人の居住区を設置。首都ゴルドバに対して、異国情緒漂う文化都市になった。そのため、多くのアラビア語の文献がトレドに持ち込まれた。
11世紀に、カスティーリャ王国がトレドを奪還すると、多くのアラビア語の文献とアラビア語を話せるキリスト教徒が残った。これが大翻訳時代の始まりである。
トレドは、歴史を生かした観光都市になっていて、世界遺産にも登録されている。
アラゴン王国、カタルーニャと同君連合
同君連合
スペインのもう1人の主役であるアラゴン王国は、このときどのような除隊であったのだろうか。37年、アラゴン国王は、カタルーニャ王を兼任する。これにより、アラゴン=カタルーニャ連合王国になった。
カタルーニャ
カタルーニャは、バルセロナと中心とした地中海とフランス国境に面した地域である。カタルーニャ地方の独立問題は過去に何度か起こっており、これは現在も続いている。
この地域は、9世紀初頭にフランク国王カール大帝がイスラム勢力から奪還した。以後、フランク王国の諸侯(辺境伯)が統治していた。この諸侯は、フランク王国をイスラム勢力から守る重要な責務を持っていた。
アラゴン王国
アラゴン王国は、11世紀にナヴァラ王国から独立したばかりの新興国である。18年にサラゴサをイスラム勢力から奪還した。以後、アラゴン王国はサラゴサを都にした。
ムワッヒド朝の成立
ムワッヒド朝とは
ムワッヒド朝は、30年にモロッコ(マグリブ)に成立した王朝である。
ベルベル人
ムワッヒド朝は、定住のベルベル人である。ベルベル人は、モロッコの先住民で、当初はアラビア人の支配を受けていた。定住のベルベル人は、あまりアラビア語が得意ではない。そのため、11世紀末に始まったスーフィズム(神秘主義)を進行するようになった。
ムワッヒド朝は、神秘主義の宗教集団として始まった。
ベルベル人のスペイン統治
47年、ムラービト朝が滅亡。スペインのイスラム勢力は一時分裂状態になった。
60年、ムワッヒド朝がイベリア半島に侵入。イベリア半島諸国を従わせた。宗教色の強いムワッヒド朝は異教徒を弾圧。とくにユダヤ教徒を国外追放した。
95年、カスティーリャ王国の侵攻を撃退している。カスティーリャ王国は、ローマ教皇インノケンティウス3世の仲介を受け入れ、ポルトガル王国と和解した。これが13世紀の快進撃につながる。
ムラービト朝の滅亡
イベリア半島のイスラム勢力は、ムワッヒド朝の統一以前は、ムラービト朝の時代であった。
ムラービト朝は、ベルベル人の遊牧民族国家である。スンナ派を侵攻していた。
ムラービト朝は、12世紀に入るとノルマン人(イングランド)の侵入に苦しんだ。これにより、ムラービト朝は衰退。
47年、ムワッヒド朝がムラービト朝の首都マラケシュを占領。ムラービト朝は滅亡した。これにより、北アフリカの大部分は、ノルマン人(イングランド)に占領された。
新王朝ムワッヒド朝は、ノルマン人(イングランド)を撃退。モロッコなどのマグリブ地方を再統一した。