前回の復習 1890年代のスペイン
1890年代、スペインは米西戦争に敗北。これにより、スペイン王室は国民の信頼を失う。ここから、共和政への動きが始まる。
1880年代の国際情勢
1880年代、日本は大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されていた頃である。
ヨーロッパでは、70年代から80年代にかけてビスマルク外交の時代に入っていた。ヨーロッパ国内では大きな戦争はなく、軍隊は植民地獲得に向かい始めていた。その標的になったのがアフリカ大陸であった。
ポルトガルvsイギリス
イギリスの最後通牒
ポルトガルは、アフリカ大陸部のザンビアとジンバブエに軍隊を派遣し、実効支配しようとした。
イギリスもこの地を植民地化しようとしていた。90年、イギリスは、ポルトガルに最後通牒(この警告に従わない場合は宣戦布告になる警告)で撤兵を要求。
ポルトガルは、この最後通牒を飲み、ザンビア・ジンバブエから撤兵。代わりにイギリス軍が駐屯。イギリス領ローデシアとなった。
軟弱外交は政府批判へ
ポルトガル王政の軟弱外交に批判が高まった。これは、反イギリス運動と共和政を求める運動につながった。これらは、主に商人の多い都市部で行われた。
ポルトガルのアフリカ政策
では、ポルトガルは、ザンビアとジンバブエを欲しがったのであろうか。
85年のベルリン=コンゴ会議でアフリカ南西部のアンゴラとアフリカ南東部のモザンビークが植民地として認められた。そこんで、両国の間にあるザンビアとジンバブエを植民地にして2つの植民地をつなげようとした。ポルトガル版アフリカ横断政策である。
イギリスのアフリカ縦断政策
では、イギリスはなぜ、ザンビア・ジンバブエが欲しかったのであろうか。
イギリスは、アフリカ南端の南アフリカ植民地とアフリカ北東部のエジプトに拠点を持っていた。そのため、南アフリカからベルギー領コンゴを通ってエジプトまで陸路で結ぶアフリカ銃弾政策を進めていた。ベルギー領コンゴと南アフリカの間になるのがザンビアとジンバブエであった。
ドイツ宰相ビスマルクはポルトガルを支援せず
ポルトガルは、なぜ撤兵の判断をしたのであろうか。それは、ドイツの支援が得られなかったからである。
当時のドイツは、アフリカ南西部のナミビアと南東部のタンザニアに進出していた。ポルトガルは、コンゴのときのようにドイツ宰相ビスマルクの仲介を期待した。
しかし、大国のイギリスと小国のポルトガルでは仲介の余地はなかった。
スペインとアフリカ
スペインとアフリカ大陸との関係
スペインは、ほとんどアフリカ大陸に植民地を持っていない。その理由は、15世紀末のトルデシリャス条約にある。この条約で、スペインの勢力圏は南北アメリカ大陸と太平洋とされた。そのため、アフリカの植民地はモロッコのみであった。
リーフ地方
スペインの植民地の1つは、モロッコ北岸の山岳地帯であるリーフ地方である。
もともと、ジブラルタ海峡近くの港町セウタに拠点をおいていた。59年、モロッコ軍に勝利し、リーフ地方を植民地にした。
西サハラ植民地
84年、モロッコの南に進出。西サハラ植民地を形成。翌85年のベルリン条約で承認された。
ベルリン=コンゴ会議
ベルリン=コンゴ会議
ベルリン=コンゴ会議とは、84年から85年にかけて、ドイツで行われた会議。テーマは、ヨーロッパ諸国によるアフリカ分割である。
ポルトガルvsベルギー
きっかけは、ベルギーのコンゴ統治に統治にあった。コンゴは、アフリカ大陸のど真ん中にある内陸国である。
ベルギー国王レオポルト2世は、78年からアフリカ内陸部の探検を開始した。その中心が探検家スタンレーであった。探検家スタンレーは、現地調査を行う一方で、コンゴの首長たちと様々な取り決めを行った。これにより、ベルギーはコンゴを実効支配した。
82年、ベルギーは、コンゴの出入り口として、コンゴ川の領有権を主張した。コンゴ川は、コンゴからアフリカ東海岸に流れる川である。この川は、フランス領コンゴとポルトガル領アンゴラの国境になっていた。そのため、フランスとポルトガルは猛反発した。
イギリスは、ベルギーを支持した。イギリスは南アフリカ植民地を持っていた。そのため、アフリカ南部のポルトガル植民地は目の上のたんこぶであった。
この仲介にあたったのが、ドイツ帝国宰相のビスマルクである。84年、ヨーロッパ各国を招集した。70年代から80年代にかけてヨーロッパでの仲裁はほぼビスマルクが担っていた。
参加国
- 議長国 ドイツ
- 当事国 ベルギー・イギリス vs フランス・ポルトガル
- その他の参加国
ロシア、オーストリア=ハンガリー帝国(三帝同盟)
イタリア、デンマーク、スウェーデン、オランダ、スペイン
アメリカ、オスマン帝国
ベルリン条約
ここでは大きく3つのことが決定した。
- コンゴ盆地の取り決め
- 奴隷貿易の禁止
- アフリカ分割のルール
ベルギーは、コンゴ盆地の統治権を得た。しかし、自由貿易(1章)と中立(3章)が約束された。
また、コンゴ盆地へのルートとして、コンゴ川(4章)とニジェール川(5章)の自由航行権が認められた。
また、奴隷貿易の禁止(2章)が決まった。
アフリカ分割についても、早いもの勝ちルールが導入された。ここで実効支配のルールが確定。それに基づいて各国の85年時点の植民地が相互承認された。