前回の復習 1930年代のスペイン
2010年代、スペインでは生前退位で新国王が誕生した。これは日本の生前譲位にも影響を与えた可能性がある。
一方、経済は苦戦。リーマンショックをきっかけに不景気が続いている。今回は、この不景気の要因になった不動産バブルを見ていきます。
1920年代の国際情勢
2000年代の国際情勢は、ニューヨークで起きた2つの事件をキーに進んでいく。
01年の9・11同時多発テロ事件と08年のリーマンショックである。
9・11同時多発テロは、アフガニスタン戦争やイラク戦争に繋がった。ヨーロッパではイスラム勢力によるテロが多発した。
また、リーマンショックは、2010年代の世界を大きく変えた。中東ではアラブの春で長期開発独裁政権が次々崩壊。ヨーロッパでは、ギリシャ国債問題をきっかけにユーロ危機が発生した。
スペイン革命の前夜
スペイン=ブルボン朝
スペインは、現在スペイン=ブルボン朝である。現在の王室は、2回目の復古王政である。スペイン=ブルボン家は、19世紀初頭のスペイン継承戦争で成立した王家である。
スペイン革命以前は1回目の復古王政である。1874年に始まり、1930年のスペイン革命で停止した。
この時代の国王は、98年に即位したアルフォンソ13世である。
スペイン革命へ
では、なぜスペイン革命は起こったのであろうか。原因はリベラ軍事独裁政権にあった。
23年に成立したリベラ軍事独裁政権は、成立当時高い国民の指示を集めていた。
長期政権になると、共産党などの労働者政党を中心に反政府運動が展開された。これに追い打ちをかけたのが27年の通貨危機である。これにより、反政府運動が激化。30年のスペイン革命へ向かっていく。
世界恐慌と通貨危機
1920年代後半の経済状況はどのようなものであったのであろうか。
戦後復興が終わり、世界は好景気にめぐまれた。その中心はアメリカであった。アメリカでは空前の投資ブーム。多くの資金がヨーロッパに流れ、バブルが発生した。
しかし、資金にも限界があった。これが27年のスペイン通貨危機である。この2年後の29年10月にニュヨーク市場で株価が大暴落(ブラックサーズデー)。これをきっかけに世界恐慌が始まる。
リベラ軍事独裁政権
リベラ軍事独裁政権は、23年に成立し、30年までに続いた。
リベラ氏は、軍人で、当時カタルーニャ地方の独立運動の鎮圧に動いていた。
23年のスペインは混乱していた。第一次世界大戦後のインフレで経済は混乱。共産主義者が各地で反政府テロが行われていた。海外では、植民地のモロッコで独立運動。国内でも、カタルーニャ地方やバスク地方で独立運動が展開されていた。
リベラ将軍は、23年9月に軍事クーデターを決行。憲法を停止し議会を解散した。国王アルフォンソ13世は、リベラ将軍を追認、首相に任命された。これにより、リベラ軍事独裁政権は成立した。
リベラ政権は、共産主義者のテロを次々制圧。26年にはモロッコの反乱に勝利した。
経済政策では、国債発行により公共事業によりインフレを抑制。景気を安定させた。
安全と経済の安定で、リベラ軍事独裁政権は国民の高い支持を得た。
しかし、政権が長期化すると、社会主義政党を中心とした反政府の動きが始まった。27年の通貨危機で景気が悪化すると、反政府の動きは加速した。30年、リベラ首相は体調不良を理由に引退。30年のスペイン革命へ向かう。
第一次世界大戦直後のスペイン
第一次世界大戦は、スペインに対して3つの悪影響を与えた。
1つ目は、インフレである。戦場となったフランスやドイツでは多くの工場が消失。これにより、物資不足が顕著になった。これにより、都市労働者を中心に生活は困窮した。
2つ目は、共産主義の台頭である。ロシア革命をきっかけに、ヨーロッパ各地で共産党が台頭した。インフレで生活が困窮した都市労働者と中心に共産党を支持するようになった。これにより、各地でテロやストライキが発生した。
3つ目は、民族自決の流れである。最後の植民地であるモロッコでは反乱(リーフ戦争)が展開。それ以外にも、バスク地方やカタルーニャ地方の独立運動も激化した。
モロッコの反乱
モロッコで反乱が発生
スペインは、モロッコ北部のリーフ地方を植民地にしていた。20年ここで独立運動が展開された。これをリーフ戦争(第3次リーフ戦争)という。
23年、独立運動家はリーフ共和国の建国を宣言。フランス領モロッコにも侵攻。フランスも参戦した。
26年、スペイン・フランス連合軍はリーフ共和国を滅ぼし、リーフ戦争は終結した。
モロッコの歴史
モロッコは、アフリカ北西部の国である。先住民はベルベル人である。古代は、フェニキア人(カルタゴ)やローマ人(共和政ローマ、ローマ帝国)の支配を受けた。
7世紀、イスラム勢力が侵攻。この頃から、ベルベル人とアラブ人の共存が始まり、ベルベル人のイスラム化が進んだ。10世紀になると、ベルベル人王朝のムラービト朝やムワッヒド朝などが成立した。
15世紀の大航海時代には、スペイン・ポルトガルやオスマン帝国の侵攻を受けるようになる。
17世紀半ば、アラウィー朝が成立。
1830年、フランスがアルジェリアへ侵攻。ここから、モロッコ(アラウィー朝)はヨーロッパ諸国の外圧を受けるようになる。
第一次世界大戦時のモロッコ
11年、第二次モロッコ事件が発生。翌12年、フランス(ポワンレ極右内閣)とモロッコ(アラウィー朝)の間でフェス条約が締結された。
モロッコ(アラウィー朝)はフランスの保護国になり、ドイツはモロッコの権益を一方で、イギリスに配慮し、ジブラルタ海峡に面した北部の港町タンジェは国際管理都市とした。
スペインは、セウタを中心とした北部のリーフ地方を割譲された。これ以外にスペインはモロッコの南に西サハラ植民地を持っていた。
民族自決とアラブ人
第一次世界大戦期、ソ連やアメリカは民族自決を打ち出した。ヴェルサイユ条約では東欧の諸民族が次々独立した。これを受けて20年代アジア・アフリカ地域で独立運動が活発化した。
また、第一次世界大戦中、イギリスは、オスマン帝国の支配下にいたアラブ人の独立運動を支援した。
この2つの動きが、リーフ戦争のきっかけとなった。
フランコ将軍
リーフ戦争では、その後に政権の中枢に入る人々が参加していた。
フランコ総統は、リーフ戦争の活躍でスペイン軍の幹部になり、36年のスペイン内戦で総統の地位についた。
また、フランス側の総司令官であったのはペタン将軍である。ペタン将軍は、第二次世界大戦中に成立したヴィシー政権の首相である。
ポルトガルの反動政治
サラザール財務大臣
軍事独裁政権
第一共和政
サバテロ政権は、スペイン軍をイラク戦争から撤退させた。