11世紀のフランス カペー朝 封建制度の完成

前回の復習 12世紀のフランス

 12世紀のフランス。ポイントは2つ、十字軍戦争とアンジュー帝国である。12世紀には、第2回、第3回十字軍が展開された。この頃、フランスの西半分はあんうう―帝国

 フランス革命以前のフランスは4つの王朝が成立した。

 カロリング朝 → カペー朝 → ヴァロワ朝 → ブルボン朝

11世紀の国際情勢

 11世紀、日本は平安時代後期。摂関政治から院政への移行期。11世紀初頭は、摂関政治の絶頂期で、道長頼通父子の時代。11世紀後半に白河上皇が院政を始める。

 

 中国は、宋王朝の時代。澶淵の盟などで、北方騎馬民族へ援助をして平和を維持していた。財政難から王安石の改革が実施された。

 イスラム圏では、セルジューク朝の時代。シーア派のブワイフ朝からトルコ系のセルジューク朝がバグダッドを奪回。カリフを中心としたスンニ派王朝が復活した。

流れ

カペー朝の成立

 11世紀のフランスは、カペー朝の時代である。フランス2番目の王朝で、10世紀末に成立。14世紀まで続いた。

 11世紀のフランスの王権は弱く、有力諸侯の連合政権の形態を取っていた。王家よりも広大な所領をもつ諸侯もいた。

 フランスの有力諸侯であるノルマンディ公は、イングランド国王になり、12世紀にはフランスの西半分を治めるアンジュー帝国を成立させた。

第1回十字軍

 11世紀は、セルジューク=トルコの時代である。

 セルジューク朝は、ビザンツ帝国から小アジアを奪っていた。

 95年11月、クレルモン会議で十字軍の結成が決定。翌97年7月、十字軍遠征が始まった。フランスを中心に、ドイツと南イタリアに進出したノルマン人によって編成された。

 十字軍は、ニケーア(小アジア)やアンティオキア(シリア)を占領し、98年7月、聖地イェルサレムを奪還した。

 99年、十字軍はイェルサレム王国を建国。多くのキリスト教徒がイェルサレムに移住した。

政治)封建制度の完成

封建制度

 中世ヨーロッパは、封建社会の時代であった。11世紀に封建制度が完成した。

 封建社会は、国王と荘園領主の関係を示す封建的主従関係と荘園領主と農民の関係を示す荘園制の2つの関係で構成される。

荘園制

 荘園制は、領主と農民の関係を示したものである。農民は農奴と呼ばれ、荘園と呼ばれる集落で生活し、領主に従った。

  • 領主 荘園の所有者。国王や諸侯、騎士のほか、上級聖職者も領主になっていた。
  • 荘園 領主が所有する農地。領主直営地、農民保有地と森などの共同利用地で構成された。
  • 農奴 農民のこと。移動(引っ越し)の自由がない。コロヌスや没落した自由民で構成された。

 農奴には2つの義務があった。1つは、農民保有地で生産した生産物の一部を領主に収めた。これは貢納と呼ばれた。当時は貨幣経済が浸透していないため、貨幣ではなく生産物で納付した。(現物経済)

 もう1つは、領主直営地での労働である。これは、賦役と呼ばれた。

 この他にも、結婚税(結婚のための転出に係る税金)。死亡税(相続税)もあった。

 荘園領主は国王に対して、課税を拒む権利と役人の立入検査を拒む権利をもっていた。これを不輸不入権(インムニテート)という。

弱い王権

 フランスの大部分は、荘園である。そのため、国王の収入は、パリ周辺の国王直轄地の税収のみになっていた。

 カペー朝は、王権強化の動きを12世紀以降進めていく。

外交・軍事)フランスの確定

イングランド)ノルマン=コンクエスト

 イングランドは、ゲルマン民族の大移動でゲルマン人が侵入した。この地に入ったのがアングロ人とザクセン人である。七王国時代を迎えていた。

 10世紀に入ると、デーン人が北海帝国を構築していく。イングランドも例外ではない。16年に、デーン人のクヌート王がイングランドを征服。(デーン朝)

 35年、クヌート王が崩御。デーン朝は急速に衰退。42年、エドワード証聖王がデーン人を追放。アングロ=サクソンの政権が復活した。

 66年、ノルマン公ウィリアムがイングランドを征服。ノルマン朝が成立する。ノルマン人がアングロ=サクソン人を統治することになった。これが、ノルマン=コンクエストである。

 70年、ノルマン人、イスラム勢力を一掃し、南イタリアを征服。12世紀に両シチリア国を建国した。これにより、ローマ教皇との関係も深まった。十字軍にも参加した。

 ノルマン人は、イングランドと南イタリアの航路を確保するため、イベリア半島(スペイン・ポルトガル)に介入。レコンキスタを支援した。12世紀に入ると、イベリア半島のムラービト朝が滅亡。

ドイツ)叙任権闘争とカノッサの屈辱

 ドイツは、9世紀半ばにオットー1世が戴冠。神聖ローマ帝国が成立した。10世紀に入ると、神聖ローマ皇帝によるイタリア遠征が繰り返される。

 24年、ザクセン朝が断絶。ザリエル朝が成立。チェコ(ボヘミア)やハンガリーが神聖ローマ帝国に服属する。

 73年、改革派教皇であるグレゴリウス7世が即位。教皇vs皇帝の叙任権闘争が始まる。77年、皇帝ハインリヒ7世が教皇に謝罪するカノッサの屈辱が起こる。

 この叙任権闘争の影響で、十字軍はフランス主導で展開される。

経済)三圃制農業

三圃制農業とは

 11世紀から13世紀は安定と成長の時代に入っていた。気候が温暖で農業生産量が拡大した。

 農業生産量の拡大の背景には、三圃制の導入や鉄製農具の使用があった。

 中国や日本などの水田は、水によって栄養を確保した。そのため、毎年同じ田んぼを使用した。しかし、ヨーロッパで主として畑作で小麦などが耕作された。毎年同じ畑を使うと生産物は低下した。そのため、耕作と休耕を繰り返す二圃制が主流になった。

 11世紀に入ると、春耕作地、秋耕作地、休耕地を繰り返す用になった。これが三圃制である。ちなみに、休耕地では家畜の棒僕が行われ、家畜の糞が次の耕作の肥料になった。

商業ルネサンス

 農業生産力の拡大により、余剰農産物の売買が始まる。これにより、商業が発展していく。

 また、ノルマンの地中海進出によって、イスラム勢力が後退。これにより、地中海交易が盛んになった。ヨーロッパとイスラム圏の交易が盛んになり、アジア産のものがヨーロッパに入っていく。          

文化

キリスト教の東西分裂

 11世紀のローマ教皇は、敵を作りまくる時代であった。

 まずは、キリスト教の東西分裂である。キリスト教はローマ教会を中心とするローマ=カトリックとコンスタンティノープル教会を中心とする東方正教会がアッた。この亀裂が最初に起きたのは、8世紀初頭に東方正教会が出した聖像禁止令である。次に起こるのがバルカン半島に進出したアジア系騎馬民族のブルガリア人の信仰の問題である。

 11世紀最終ラウンドが起こる。そのきっかけもノルマン人にある。ノルマン人が南イタリアに進出。これに対し、ローマ教会とビザンツ帝国・東方正教会連合軍が抵抗。この時期にローマ=カトリックと東方正教会の対立が表面化。54年、東西教会の相互破門が行われ、教会の東西分裂が決定的になった。

 次の敵は、神聖ローマ皇帝がある。73年、改革派教皇であるグリゴリウス7世が即位。ここから教会人事権(叙任権)を神聖ローマ皇帝と取り合うことになる(叙任権闘争)。

 4年後の77年、皇帝(ハインリヒ4世)が破門されて、教皇に謝罪する。(カノッサの屈辱)。

 88年、教皇ウルバヌス2世が即位。95年のクレルモン宗教会議で十字軍遠征が始まる。

吟遊詩人

 11世紀、フランスでは貴族の恋愛を謳い上げた詩が流行した。このような詩を歌ったのが吟遊詩人である。この詩は騎士階級を中心に広まった。

 同じ頃、日本の貴族は、和歌を送り合って愛を育んでいた。

ロマネスク式教会建築

 この時期、教会の建築形式はビザンツ形式からロマネスク様式に変化していった時代である。その背景には、東西教会の都立がある。東方正教会に対抗して、11世頃からロマネスク様式の教会が建設されていく。

 建築技術が未熟のため、厚い壁と小さい窓、円形のアーチが特徴である。後述するシトー修道院は、ロマネスク様式で建設された。

シトー修道会

 98年、中部フランスでシトー修道会が設立。12世紀に入ると、クリュニー修道会に代わり、修道院運動の中心的な存在になる。

 シトー修道会は、開墾の支援を行った。これが12世紀の第かい今時代につながる。

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