前回の復習 16世紀後半のフランス
16世紀後半のフランスは、激しい内乱の時代であった。ユグノー戦争である。新興勢力であるカルヴァン派(プロテスタント)のユグノーとカトリック勢力の争いであった。
今回から、ヴァロワ朝の時代に入っていきます。今回のテーマは、フロンソワ1世とイタリア戦争を見ていきます。
フランス革命以前のフランスは4つの王朝が成立した。
カロリング朝 → カペー朝 → ヴァロワ朝 → ブルボン朝
16世紀前半の国際情勢
日本は、江戸時代後期。松平定信の寛政の改革が行われた時代である。
中国は、清王朝の時代。乾隆帝が崩御。四川では白蓮教徒の乱が起こる。
ヨーロッパでは、イギリスは産業革命を
フランソワ1世
概要
フランソワ1世は、ヴァロワ朝フランスの国王である。15年に即位。47年になくなった、16世紀前半の国王である。主な業績は以下の通りである。
- イタリア戦争でカール5世(カルロス1世)と争った。
- カナダ探検
イタリア戦争
イタリア戦争は、15世紀末から16世紀半ばまで行われたフランスと神聖ローマ帝国(ドイツ)との戦争である。舞台は、イタリアが舞台になった。
94年のシャルル8世のナポリ(イタリア南部)の遠征から始まる。59年のカトー=カンブレッジ条約で講和した。
ヴァロワ朝
ヴァロワ朝は、14世紀に成立したフランス三番目の王朝である。16世紀末に断絶し、ブルボン朝が成立する。
前半は、イギリスと百年戦争が展開され、後半はドイツ(神聖ローマ帝国)とイタリア戦争が展開された。
イタリア戦争
展開① ナポリ王国継承戦争
当時の戦争は、領主の後継者問題が中心であった。
イタリア戦争の始まりも、例外ではなかった。当時のイタリアは分裂していた。南イタリアのナポリ王国では、スペインのアラゴン王室の分家が統治していた。そのナポリ=アラゴン家が断絶。
フランス国王シャルル8世がナポリ王国の王継承を主張。ローマ教皇はそれを認めなかった。
94年、シャルル8世が、イタリアに派兵。これがイタリア戦争の始まりである。
99年、舞台は北イタリアに移った。次のフランス国王ルイ12世は、ミラノ公国の王位継承問題に介入。
イタリア諸国は、フランス側と反フランス派に分裂。
ローマ教皇も、親フランス派と反フランス派が何度も入れ替わった。
展開② 皇帝選挙と狭義イタリア戦争
19年、神聖ローマ皇帝の選挙が行われた。主要な候補は2人である。スペイン国王(ハプスルブルグ家)のカルロス1世とフランス国王フランソワ1世である。
この選挙で、カルロス1世が勝利。カール5世として神聖ローマ皇帝に就任した。これにより、フランスは、ハプスブルグ家の領土に囲まれた。
21年、フランソワ1世は、カール5世に戦争を仕掛けた。これが狭義のイタリア戦争である。フランソワ1世は、スペインとイタリアへ同時に侵攻した。
24年、ドイツ農民戦争が勃発。
25年、パヴィアの戦いでフランスが大敗。国王フランソワ1世が捕虜になる。2人の子ども人質に出し、多くの領土を割譲することでパリへ帰還することができた。
27年、カール5世は、親フランス派の教皇が治めるローマへ侵攻。ローマを荒廃させた。これがローマの劫略である。
展開③
神聖ローマ皇帝カール5世
第二身分。農民からの地代で生活。重要官職を握り、免税特権を持つ。
この時代には、貴族の間でも貧富の差が出てきた。これにより、貴族の間でも需要視することが違っていた。
貧しい貴族は、免税特権の維持を重要視した。一方で、豊かな貴族は、免税特権よりも、憲法による王権の制限を重視した。
オスマン帝国
貴族への地代の支払いと、税金で生活が苦しい。
土地の所有者になって、自作農になりたい。
スペイン 太陽の沈まぬ国
ブルジョワ。多額の資産を持ち、多額の税金を支払っている。しかし、貴族ではないので政治に参画できない。そのため、選挙権の獲得を希望した。
また、産業革命に成功した安いイギリス産工業品の輸入に規制をかけたい。
影響
イタリア戦争は、中世と近世の展開点である。日本で言う戦国時代に当たる。この影響は、主に3つある
1つ目は軍事革命である。騎士中心の戦争から、鉄砲を中心とした歩兵が主力部隊になった。また、戦闘部隊は、国王と主従関係を結んだ騎士から、金銭で雇った傭兵が中心になった。
2つ目は国王権力の増大である。いわゆる主権国家の成立である。軍事革命により貴族の必要性がなくなった。これにより、封建制が崩壊した。また、傭兵や鉄砲(高額な武器)により、軍事費が増大。国王は莫大な資金を必要となった。
3つ目は、文化面である。北方ルネサンスの始まりである。中世まで、西欧の文化の中心はイタリアであった。しかし、イタリア戦争でイタリアは荒廃。イタリアにいた文化人はヨーロッパ全土に避難した。とくに、商工業者の多いオランダへ移住するものは多かった。
宗教改革
宗教改革
パリ市民の暴動は、全国に広まった。農民は貴族を襲うようになった。89年8月、自由主義的貴族により、農民向けの政策を打ち出した。自由主義的貴族は、比較的裕福な貴族で免税特権の維持よりも議会と憲法により権限の拡大を望んでいた貴族である。アメリカ独立戦争で活躍したラ=ファイエットなどがその代表である。領主裁判権の廃止や教会への納税義務である。ちなみに領主裁判権とは貴族領主が農民を裁く権利である。地代も有償で廃止したがとても農民が払える額ではなかった。また、89年8月、国民議会は人権宣言を採択した。人権宣言は、自由・平等・国民主権などが唱えられた。私有財産の不可侵がある。私有財産の不可侵とは、土地などの私有財産は国家などに没収されないということである。
89年10月、パリ市民は、ヴェルサイユ宮殿に向かった。これにより、王家と国民議会は、ヴェルサイユからパリへ移った。(ヴェルサイユ行進)ちなみにヴェルサイユは17世紀中ごろ、ルイ16世の親政(皇帝や王が自ら政治を取り仕切ること)期に作られた宮殿である。
5月、ナポレオンは、エルバ島に流刑。亡命中のルイ18世がフランスに帰国。国王に即位する。(復古王政)
22年、五国同盟の定例会議でスペイン立憲革命へ援軍派遣を協議。イギリスの強い反発で決裂した。ルイ14世は、フランスの単独出兵を実施。これにより、スペイン立憲革命は弾圧された。このことにイギリスは反発した。イギリスは、五国同盟から離脱。五国同盟は事実上崩壊した。
このスペインの混乱期に、スペインの植民地であったラテンアメリカ諸国が次々独立した。イギリスは、この独立運動を支援。アメリカも、モンロー教書を出して支持を表明した。
イエズス会の結成
カルヴァン派の成立
5月、ローマ教皇によって、戴冠式が行われる。
オーストリアは、これに反発。神聖同盟を使って弾圧しようとした。オーストリアは、オスマン帝国と同様にバルカン半島の週数民族を支配している。オスマン帝国の独立運動が時刻に波及することを恐れた。神聖同盟の多くの国がこれに反発し、実現しなかった。
ロシアが、ギリシャ支援に回った。名目的には、ロシアとギリシャが同じ東方正教会を進行していたからである。実質的な目的は、南下政策(地中海進出)である。地中海沿岸のギリシャにロシアの拠点を作ろうとした。
27年、フランス(シャルル10世)とイギリスが東地中海への進出を目的に、ギリシャ支援に回った。英仏露連合海軍とオスマン帝国海軍による海戦(ナヴァリノ海戦)が行われた。このとき、イギリスは、蒸気船を投入。英仏連合海軍が勝利。これにより、ギリシャ独立戦争の勝敗も明確になった。
29年、オスマン帝国は、ロシアと講和。
東インド会社と英仏植民地戦争
インド
アメリカ
ハイチ
ヴェルサイユ宮殿
北方ルネサンス
89年、5月、国王ルイ16世は、貴族(特権身分)への課税をもとめて三部会(国会)をヴェルサイユで開催。反対する貴族(特権身分)と賛成派する商人(第三身分)らが対立。6月、賛成派が国民議会を作り憲法制定するまで解散しないと宣言した。これが「球戯場の誓い」である。国王と貴族は、武力を持って弾圧。7月14日、パリ市民はパリのバスティーユ牢獄を攻撃。フランス革命が始まった。
ちなみに、三部会とは、14世紀(1402年)、フィリップ4世が教会に課税するために開催した議会。教会への課税が決議され、アナーニ事件につながる。しかし、17世紀(1615年)、ルイ13世の宰相がリシュリューが絶対王政を確立するために停止した。
外交
カナダ探検
パリ市民の暴動は、全国に広まった。農民は貴族を襲うようになった。89年8月、自由主義的貴族により、農民向けの政策を打ち出した。自由主義的貴族は、比較的裕福な貴族で免税特権の維持よりも議会と憲法により権限の拡大を望んでいた貴族である。アメリカ独立戦争で活躍したラ=ファイエットなどがその代表である。領主裁判権の廃止や教会への納税義務である。ちなみに領主裁判権とは貴族領主が農民を裁く権利である。地代も有償で廃止したがとても農民が払える額ではなかった。また、89年8月、国民議会は人権宣言を採択した。人権宣言は、自由・平等・国民主権などが唱えられた。私有財産の不可侵がある。私有財産の不可侵とは、土地などの私有財産は国家などに没収されないということである。
89年10月、パリ市民は、ヴェルサイユ宮殿に向かった。これにより、王家と国民議会は、ヴェルサイユからパリへ移った。(ヴェルサイユ行進)ちなみにヴェルサイユは17世紀中ごろ、ルイ16世の親政(皇帝や王が自ら政治を取り仕切ること)期に作られた宮殿である。
翌06年7月、ドイツにライン同盟が成立。翌8月神聖ローマ帝国は名目上も解体した。10月、イエナの戦い
カナダ植民
91年、6月国王一家はオーストリア(后マリーアントワネットの実家)へ亡命しようとして失敗。国王は支持を失う。8月、オーストリアはプロイセンとともにフランス国王の支援に宣戦布告。9月、国民議会は憲法を採択。一院制立憲君主制を定め、国民議会を解散した。なお、選挙権は財産で制限しているため、貴族と商人に限られた。
91年10月、憲法に基づいて選挙が行われ立法議会が開催された。議会は2つの派閥(政党のようなもの)が対立した。現行憲法維持したい立憲君主派と王権を停止して共和制へ移行したいジロンド派である。立憲君主派の主な支持層は貴族や軍隊で、ジロンド派の主な支持層は大商人であった。92年春にはジロンド派が政権を握る。ジロンド派はオーストリアに宣戦布告した。軍隊は王党派のため戦意にかけ、敗戦を繰り返していた。
これに対し、農民とパリ市民は義勇軍(ボランティアの軍隊) が結成された。この時、義勇軍が歌っていた軍歌が今のフランス国歌「ラ=マルセイエーズ」である。92年8月、義勇軍とパリ市民は、パリの宮殿を襲い王権を停止した。
三十年戦争に介入
92年9月、男子普通選挙を行い国民公会が成立した。選挙権は農民やパリ市民にも拡大した。その理由は、義勇軍の活躍である。このころ、局地戦で義勇軍がプロイセンを撃退している。国民公会は王政を廃止し、共和制(国王のいない政治スタイル)を樹立した。
国民公会では、急速な共和制を望むジャコバン派が勢力を増した。93年1月元国王ルイ16世は処刑された。イギリス首相ピットは、第1回対仏大同盟を結成した。また、国内でも王党派の反乱も起きている。
パリ条約 すべての海外植民地を放棄
93年、ジャコバン派はジロンド派を追放。ロベスピエールを中心としたジャコバン派政権を樹立した。パリ市民や農民向けの政治を行った。端的に言えば、旧支配層や金持ちをギロチンにかけて、その財産を国民に分配する政策である。地代の無償廃止、価格統制などである。反対派を次々処刑する恐怖政治を行った。いわゆるギロチン政治である。徴兵制の導入や反キリスト教政策を進めた。語弊を恐れずに言うとフランスが北朝鮮のようになった。フランク革命の大きな政策はほぼこの時期に行われた。
しかし、第1回対仏大同盟の脅威がなくなると、ジャコバン派政権は農民やパリ市民の支持を失っていた。このころ、農民は、地代の無償廃止によって地主に変っていた。パリ市民も価格統制令によって生活が安定していた。そのため、これ以上の革命の進行を望まなかった。94年7月、テルミドール9日のクーデターでロベスピエールは処刑された。
七年戦争後のフランス
63年、パリ条約を締結。
65年、イエズス会を解散
70年、東インド会社を解散した。
74年、ルイ16世が即位
文化)ロココ
アカデミー=フランセーズ
95年の憲法改正で、普通選挙から制限選挙に変更。農民やパリ市民の選挙権は亡くなった。これにより、総裁政府が成立した。総裁政府は、王党派とジャコバン派の残党により社会不安が続いていた。
この中で台頭してきたのが、軍人のナポレオンである。96年ナポレオンはイタリアでオーストリア軍を破る。96年には、イギリスのインドルートを断絶するためオスマン帝国のエジプトに遠征した。この遠征時にロゼッタストーンが発見されている。99年、イギリスはエジプト遠征に対抗して第2回対仏大同盟を結成。99年11月、ナポレオンはエジプトから緊急帰国し、ブリュメール18日のクーデターで、ナポレオン独裁政権を開き、10年にわたったフランス革命は終結した。
ちなみに、99年に距離の単位がメートルになった。