16世紀後半のフランス ヴァロワ朝 宗教改革とユグノー戦争

前回の復習 17世紀前半のフランス

 17世紀は、ブルボン朝の時代である。17世紀前半は、ブルボン朝の絶対王政の確立期である。有力貴族の合議体であった三部会を停止した。太陽王ルイ14世が即位し、絶対王政が隔離した。

 今回の16世紀後半のフランスは、ブルボン朝の成立につながるユグノー戦争を見ていきます。

 フランス革命以前のフランスは4つの王朝が成立した。

 カロリング朝 → カペー朝 → ヴァロワ朝 → ブルボン朝

16世紀後半の国際情勢

 16世紀は、「世界の一体化」が始まった時代である。スペイン・ポルトガルによる大航海時代である。16世紀後半は、フェリペ2世がポルトガルを併合し、「太陽の沈まぬ国」になった。

 日本は、安土桃山時代。織田信長、豊臣秀吉の時代である。

 中国は、明王朝の時代。明王朝の末期の万暦帝の時代である。

ユグノー戦争

概要

 ユグノー戦争は、16世紀後半におきたフランス王位をかけた貴族間の内戦である。新教派と旧教派で分かれたため、宗教戦争の意味合いも強かった。

 62年に始まり、98年に終結。ブルボン朝が成立した。

宗教改革とカルヴァン派

 16世紀前半は、宗教改革の時代である。ルターが『95か条の論題』をドイツで発表したことから始まる。

 プロテスタントは、主として2つの派閥がある。ルター派とカルヴァン派である。

 ルター派は、神聖ローマ帝国(ドイツ)のルターが始めた派閥である。ドイツ北部(プロイセン・ザクセンなど)や北欧(スウェーデンなど)で広まった。

 一方、カルヴァン派は、スイスのカルヴァンが広めたプロテスタントである。イギリス・フランス・オランダなど西欧で広まった。カルヴァン派は、貯蓄を良しとされた。そのため、商工業者の間で広まった。

 ユグノーは、フランスでのカルヴァン派と呼び名であった。

海外のカルヴァン派

 イギリスでは、カルヴァン派はピューリタン(清教徒)と呼ばれた。熱心なピューリタンが、17世紀初頭にアメリカへわたった(ピルグリム・ファーザーズ)。17世紀なかばにピューリタン革命を起こした。また、スコットランドでは、カルヴァン派が多く、長老派と呼ばれた。

 オランダでは、ゴイセンと呼ばれ、オランダ独立戦争で中心的な存在であった。

ヴァロワ朝

 ヴァロワ朝は、14世紀に成立したフランス三番目の王朝である。ヴァロワ朝は常に対外戦争が行われていた。前半では百年戦争でイングランド(イギリス)と戦い、後半ではイタリア戦争で神聖ローマ帝国(ドイツ・ハプスブルグ家)と戦った。

3アンリ

サン=バルテルミの大虐殺

 72年、旧教徒貴族が、新教徒たちを虐殺した。始まりはパリ出会ったが、後に全土に広がった。

ブルボン朝の成立

 新教徒側のブルボン家のアンリ4世は、89年にフランス国王に就任。

 93年、カトリックに改宗し、旧教徒陣営と講和。パリへ入場した。

ナントの王令

 98年、アンリ4世は、ナントの王令を発布。カルヴァン派の信仰を容認した。

ヨーロッパ

カレーの獲得

 55年、カール5世が引退。フェリペ2世がスペイン国王に即位した。

 57年、スペインは、イングランド(メアリ2世)ともにフランスに侵攻した。この戦争でフランス軍が勝利。大陸側にあった唯一のイングランド領であるカレーをフランスに割譲した。

イタリア戦争終結

 59年、スペインとフランスが講和。カトー=カンブレッジ条約を締結。広義のイタリア戦争は終結した。

スペイン 太陽の沈まぬ国