1790年代のフランス フランス革命

前回の復習 1800年代のフランス

 フランス革命の申し子であるナポレオン戦争が皇帝に即位。ヨーロッパ各国へ侵攻した。一方で、フランス革命の総決算として、ナポレオン法典を制定した。

1790年代の国際情勢

 日本は、江戸時代後期。松平定信の寛政の改革が行われた時代である。

 中国は、清王朝の時代。乾隆帝が崩御。四川では白蓮教徒の乱が起こる。

概要

フランス革命とは

 フランス革命は、18世紀末にフランスでおきた市民革命である。ブルボン朝が終わり、共和政を経て、皇帝ナポレオンが登場して終わる。

流れ

登場人物

国王

 ルイ16世後世。后は、オーストリア=ハプスブルグ家のマリー・アントワネットである。

 宮廷費と戦費の増大で、財政難。

 増税して、財政を再建したい。農民への増税は限界なので、貴族に課税したい。

聖職者

 第一身分。フランスのキリスト教は、ローマ教皇をトップにしたピラミッド構造になっている。貴族同様に免税特権を持っている。

貴族

 第二身分。農民からの地代で生活。重要官職を握り、免税特権を持つ。

 この時代には、貴族の間でも貧富の差が出てきた。これにより、貴族の間でも需要視することが違っていた。

 貧しい貴族は、免税特権の維持を重要視した。一方で、豊かな貴族は、免税特権よりも、憲法による王権の制限を重視した。

農民

 貴族への地代の支払いと、税金で生活が苦しい。

 土地の所有者になって、自作農になりたい。

パリ市民(産業資本家)

 ブルジョワ。多額の資産を持ち、多額の税金を支払っている。しかし、貴族ではないので政治に参画できない。そのため、選挙権の獲得を希望した。

 また、産業革命に成功した安いイギリス産工業品の輸入に規制をかけたい。

パリ市民(都市労働者)

 サン・キュロット。生活が苦しい。

フランス革命の原因

 フランス革命の原因は、財政難である。太陽王ルイ14世の王室財政の拡大が要因に思えるがそうではない。要因は2つある。1つ目は、植民地の喪失である。七年戦争の敗北で大部分の植民地を失った。王室の財政の大部分は、植民地との交易で支えられていた。これが激減した。2つ目は、戦費の拡大である。18世紀後半だけでも、七年戦争とアメリカ独立戦争がある。

 そこに、経済をさらに悪化する事件が起きる。世界規模の基金である。日本でも、天保の大飢饉で多くの死者を出した。

革命の始まり

増税

 パリ市民の暴動は、全国に広まった。農民は貴族を襲うようになった。89年8月、自由主義的貴族により、農民向けの政策を打ち出した。自由主義的貴族は、比較的裕福な貴族で免税特権の維持よりも議会と憲法により権限の拡大を望んでいた貴族である。アメリカ独立戦争で活躍したラ=ファイエットなどがその代表である。領主裁判権の廃止や教会への納税義務である。ちなみに領主裁判権とは貴族領主が農民を裁く権利である。地代も有償で廃止したがとても農民が払える額ではなかった。また、89年8月、国民議会は人権宣言を採択した。人権宣言は、自由・平等・国民主権などが唱えられた。私有財産の不可侵がある。私有財産の不可侵とは、土地などの私有財産は国家などに没収されないということである。
 89年10月、パリ市民は、ヴェルサイユ宮殿に向かった。これにより、王家と国民議会は、ヴェルサイユからパリへ移った。ヴェルサイユ行進)ちなみにヴェルサイユは17世紀中ごろ、ルイ16世の親政(皇帝や王が自ら政治を取り仕切ること)期に作られた宮殿である。

 5月、ナポレオンは、エルバ島に流刑。亡命中のルイ18世がフランスに帰国。国王に即位する。(復古王政)

 22年、五国同盟の定例会議でスペイン立憲革命へ援軍派遣を協議。イギリスの強い反発で決裂した。ルイ14世は、フランスの単独出兵を実施。これにより、スペイン立憲革命は弾圧された。このことにイギリスは反発した。イギリスは、五国同盟から離脱。五国同盟は事実上崩壊した。

 このスペインの混乱期に、スペインの植民地であったラテンアメリカ諸国が次々独立した。イギリスは、この独立運動を支援。アメリカも、モンロー教書を出して支持を表明した。

三部会の再開

 5月、ローマ教皇によって、戴冠式が行われる。

 オーストリアは、これに反発。神聖同盟を使って弾圧しようとした。オーストリアは、オスマン帝国と同様にバルカン半島の週数民族を支配している。オスマン帝国の独立運動が時刻に波及することを恐れた。神聖同盟の多くの国がこれに反発し、実現しなかった。

 ロシアが、ギリシャ支援に回った。名目的には、ロシアとギリシャが同じ東方正教会を進行していたからである。実質的な目的は、南下政策(地中海進出)である。地中海沿岸のギリシャにロシアの拠点を作ろうとした。

 27年、フランス(シャルル10世)とイギリスが東地中海への進出を目的に、ギリシャ支援に回った。英仏露連合海軍とオスマン帝国海軍による海戦(ナヴァリノ海戦)が行われた。このとき、イギリスは、蒸気船を投入。英仏連合海軍が勝利。これにより、ギリシャ独立戦争の勝敗も明確になった。

 29年、オスマン帝国は、ロシアと講和。

球戯場の誓い

バスティーユ監獄の襲撃

89年、5月、国王ルイ16世は、貴族(特権身分)への課税をもとめて三部会(国会)をヴェルサイユで開催。反対する貴族(特権身分)と賛成派する商人(第三身分)らが対立。6月、賛成派が国民議会を作り憲法制定するまで解散しないと宣言した。これが「球戯場の誓い」である。国王と貴族は、武力を持って弾圧。7月14日、パリ市民はパリのバスティーユ牢獄を攻撃フランス革命が始まった。
 ちなみに、三部会とは、14世紀(1402年)、フィリップ4世が教会に課税するために開催した議会。教会への課税が決議され、アナーニ事件につながる。しかし、17世紀(1615年)、ルイ13世の宰相がリシュリュー絶対王政を確立するために停止した。 

自由主義貴族と人権宣言

ライン同盟

 パリ市民の暴動は、全国に広まった。農民は貴族を襲うようになった。89年8月、自由主義的貴族により、農民向けの政策を打ち出した。自由主義的貴族は、比較的裕福な貴族で免税特権の維持よりも議会と憲法により権限の拡大を望んでいた貴族である。アメリカ独立戦争で活躍したラ=ファイエットなどがその代表である。領主裁判権の廃止や教会への納税義務である。ちなみに領主裁判権とは貴族領主が農民を裁く権利である。地代も有償で廃止したがとても農民が払える額ではなかった。また、89年8月、国民議会は人権宣言を採択した。人権宣言は、自由・平等・国民主権などが唱えられた。私有財産の不可侵がある。私有財産の不可侵とは、土地などの私有財産は国家などに没収されないということである。
 89年10月、パリ市民は、ヴェルサイユ宮殿に向かった。これにより、王家と国民議会は、ヴェルサイユからパリへ移った。ヴェルサイユ行進)ちなみにヴェルサイユは17世紀中ごろ、ルイ16世の親政(皇帝や王が自ら政治を取り仕切ること)期に作られた宮殿である。

 翌06年7月、ドイツにライン同盟が成立。翌8月神聖ローマ帝国は名目上も解体した。10月、イエナの戦い

大陸封鎖令

91年、6月国王一家はオーストリア(后マリーアントワネットの実家)へ亡命しようとして失敗。国王は支持を失う。8月、オーストリアプロイセンとともにフランス国王の支援に宣戦布告。9月、国民議会は憲法を採択。一院制立憲君主制を定め、国民議会を解散した。なお、選挙権は財産で制限しているため、貴族と商人に限られた。
91年10月、憲法に基づいて選挙が行われ立法議会が開催された。議会は2つの派閥(政党のようなもの)が対立した。現行憲法維持したい立憲君主派と王権を停止して共和制へ移行したいジロンド派である。立憲君主派の主な支持層は貴族や軍隊で、ジロンド派の主な支持層は大商人であった。92年春にはジロンド派が政権を握る。ジロンド派オーストリアに宣戦布告した。軍隊は王党派のため戦意にかけ、敗戦を繰り返していた。
 これに対し、農民とパリ市民は義勇軍(ボランティアの軍隊) が結成された。この時、義勇軍が歌っていた軍歌が今のフランス国歌「ラ=マルセイエーズ」である。92年8月、義勇軍とパリ市民は、パリの宮殿を襲い王権を停止した。

国王ルイ16世の処刑

 92年9月、男子普通選挙を行い国民公会が成立した。選挙権は農民やパリ市民にも拡大した。その理由は、義勇軍の活躍である。このころ、局地戦で義勇軍プロイセンを撃退している。国民公会は王政を廃止し、共和制(国王のいない政治スタイル)を樹立した。
 国民公会では、急速な共和制を望むジャコバン派が勢力を増した。93年1月元国王ルイ16世は処刑された。イギリス首相ピットは、第1回対仏大同盟を結成した。また、国内でも王党派の反乱も起きている。

フランスが北朝鮮化

 93年、ジャコバン派ジロンド派を追放。ロベスピエールを中心としたジャコバン派政権を樹立した。パリ市民や農民向けの政治を行った。端的に言えば、旧支配層や金持ちをギロチンにかけて、その財産を国民に分配する政策である。地代の無償廃止、価格統制などである。反対派を次々処刑する恐怖政治を行った。いわゆるギロチン政治である。徴兵制の導入やキリスト教政策を進めた。語弊を恐れずに言うとフランスが北朝鮮のようになった。フランク革命の大きな政策はほぼこの時期に行われた。
 しかし、第1回対仏大同盟の脅威がなくなると、ジャコバン派政権は農民やパリ市民の支持を失っていた。このころ、農民は、地代の無償廃止によって地主に変っていた。パリ市民も価格統制令によって生活が安定していた。そのため、これ以上の革命の進行を望まなかった。94年7月、テルミドール9日のクーデターロベスピエールは処刑された。

革命はこりごり

95年の憲法改正で、普通選挙から制限選挙に変更。農民やパリ市民の選挙権は亡くなった。これにより、総裁政府が成立した。総裁政府は、王党派とジャコバン派の残党により社会不安が続いていた。
 この中で台頭してきたのが、軍人のナポレオンである。96年ナポレオンはイタリアでオーストリア軍を破る。96年には、イギリスのインドルートを断絶するためオスマン帝国エジプトに遠征した。この遠征時にロゼッタストーンが発見されている。99年、イギリスはエジプト遠征に対抗して第2回対仏大同盟を結成。99年11月、ナポレオンはエジプトから緊急帰国し、ブリュメール18日のクーデターで、ナポレオン独裁政権を開き、10年にわたったフランス革命終結した。
 ちなみに、99年に距離の単位がメートルになった。

ドイツ)フィヒテ「ドイツ国民に告ぐ」

スペイン)ゴヤ「1808年5月3日マドリード市民の処刑」

ロシア)大陸封鎖令の破棄

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