1840年代のフランス 二月革命(48年革命)と ナポレオン三世

七月王政下のフランスは、立憲君主性になっていた。しかし、選挙権は貴族と少数の富裕層に限られた。そのため、都市労働者や産業資本家(中小企業の社長)は不満を持っていた。46年に凶作と不況が起こるとこれが爆発。48年二月革命が勃発。七月王政が倒れ、第二共和制へ移行した。第二共和制は、産業資本家と都市労働者が対立。そのなかで登場したのがナポレオン三世である。

銀行資本家による七月王政

 1840年ごろのフランスは、七月王政下の立憲君主制であった。厳しい制限選挙であったため、貴族と銀行を経営できるような大資本家にしか選挙権がなかった。産業資本家(中小企業の社長)や農民の大部分は選挙権がなかった。また、産業革命が進展。労働者階級が大きくなった。そのような中、ルイ=ブランのような社会主義者が台頭してきた。このような中、44年アヘン戦争に敗戦した清王朝と黄埔条約を締結。清王朝との自由貿易が始まる。

二月革命と第二共和制

 このような中、46年凶作と不況が起こる。このような中で、各地で男子普通選挙を求める運動が各地で起こった。七月王政政府はこれを拒否し、運動の取り締まりを行った。48年2月パリ民衆は再び立ち上がった。国王ルイ=フィリップは亡命、共和制臨時政府が樹立した。第二共和制の始まりである。臨時政府は産業資本家と労働者階級の連合政権であった。この二月革命は、プロイセンオーストリアにも波及した。

社会主義政策 都市労働者VS穏健共和派

 第二共和制臨時政府は、男子普通選挙を行った。選挙民の大部分はフランス革命で自作農に昇格した農民である。そのため、急激な革命は好まれなかった。そのため、急激な革命を望む社会主義者(労働者階級の代表)は大敗し、産業資本家を中心とした穏健共和派が中心となった政府が樹立された。この政府には、社会主義者のルイ=ブランも参加した。ルイ=ブランは、失業者対策で国立作業場を創設し、失業者に職を与えた。しかし、この財政負担に耐えられず、国立作業場を閉鎖。ルイ=ブランを政府から追放した。これに対し、48年6月パリの労働者は再び暴動を起こす。しかし、穏健共和派政権は武力でこれを鎮圧した。この事件により、社会主義者も穏健共和派もフランス農民の支持を失った。48年12月の大統領選挙ではナポレオンの甥ナポレオン三世が当選した。

ルイ=ナポレオンの登場

大票田をもつ農民は、パリには住んでいない。パリでの共和派と都市労働者の戦いにフランス農民は嫌気を指していた。そこに登場したのがナポレオンの甥、ルイ=ナポレオンナポレオン三世)である。48年12月の大統領選挙で、ルイ=ナポレオンが当選した。

タイトルとURLをコピーしました