1850年代のフランス ナポレオン3世がクリミア戦争に勝利

前回の復習 1860年代のフランス

1860年代の国際情勢

第二共和政

48年革命)二月革命

 48年、ヨーロッパは各地で革命が発生した。48年革命である。その始まりは、フランスの二月革命である。二月革命で、七月王政は崩壊。共和政へ移行した。

第二共和政

 第二共和政の臨時政府が成立。しかし、内部分裂を開始した。穏健共和派、急進共和派(ジャコバン派)のほかに、社会主義者も参加した。

 このような混乱のなか、48年12月に大統領選挙が行われた。この結果、意外な人物が当選した。ルイ=ナポレオンである。のちの皇帝ナポレオン3世である。

 彼らを支持したのは、地方の地主層である。フランス革命で領主から自立した人々であった。不況の影響で生活は困窮していた。

ナポレオン3世が皇帝に

 大統領ルイ=ナポレオンは、当初うまく政治を運営できなかった。その理由は、ねじれ議会である。議会は、穏健共和派が多数を占めていて、議会運営に苦しんだ。

 51年12月、クーデターを決行。議会から共和派を追放。翌52年1月、憲法を改正。大統領の任期を延長した。

 52年12月、大統領のナポレオン3世は国民投票によって皇帝になった。

クリミア戦争

聖地管理権

 52年、フランス皇帝に即位したナポレオン3世は、ローマ教皇との関係を重視した。

 最初に手を付けたのがエルサレムの聖地管理権の獲得であった。フランス王室は、代々、エルサレムの聖地管理を担当していた。しかし、18世紀末のフランス革命で、王政が停止。08年、エルサレムの聖地管理は、東方正教会系のロシア王室が担当することになった。

 ナポレオン3世が、オスマン帝国に聖地管理権を要求すと、オスマン帝国は、これを認めた。これに待ったをかけたのが、それまで聖地管理権を持っていたロシアであった。

ロシアは、エルサレムの東方正教会の教徒の保護を名目にオスマン帝国へ宣戦布告した。実質的な目的は、40年のロンドン条約で失ったダーダネルス=ボスフォラス海峡の自由航行権の獲得にあった。

 ナポレオン3世は、当然、オスマン帝国に援軍を送った。イギリスとサルディーニャ王国(後のイタリア)もオスマン帝国側で参戦した。

第1回パリ万国博覧会

 55年5月、クリミア戦争のさなか、ナポレオン3世は、第1回パリ万国博覧会を開催。

 この博覧会は、51年のロンドン万国博覧会ほど、盛り上がらなかった。しかし、クリミア戦争の同盟をアピールするため、イギリスのヴィクトリア女王夫妻が訪問。これにより、ナポレオン3世の権威を対外的にアピールすることができた。

 ナポレオン3世は、これに応じてフランス国内の鉄道網を整備した。この鉄道で主に運ばれたのがワインである。この博覧会で、フランスワインの価値が高まった。これは、地方のブドウ農家の収入を増やした。このワインが、第1回万国博覧会の目玉であった。この博覧会で、ワインの格付けを実施した。

 この博覧会の前後から、工業国のイギリスへのワインの輸出が拡大した。

 この時期になると、フランスの産業革命が完成した。

 カリフォルニアとオーストラリアでゴールドラッシュが発生。ヨーロッパに大量な金が流入した。

パリ条約で停戦

 55年9月、イギリス・フランス連合軍は、クリミア半島のセヴァストーポリ要塞が陥落。ロシアの敗北が決定した。

 翌56年3月、パリ条約を締結。クリミア戦争は講和した。

 この会議は、ウィーン会議以来の大規模な国際会議となった。 終盤には、プロイセンやオーストリアもフランス側で参戦をしたためである。 

 途中参戦したサルディーニャ王国も会議に参加。強国の仲間入りをした。

 パリ条約の主な内容は、以下の通りである。

  • オスマン帝国の領土の保全
  • 41年ロンドン条約の再確認
    • ダーダネルス=ボスフォラス海峡の閉鎖
    • 黒海の中立化
  • ドナウ川の自由航行
  • 東欧のルーマニアの前身であるモルダビア・ワラキアの自治権の承認
    • モルダビアとワラキアは、59年に合併。61年にルーマニア公国になる。
  • 東欧のセルビアの自治権を承認

アロー戦争

聖職者殺害事件

 56年、清王朝(中国)でフランス人宣教師が殺害される事件が発生した。

 ナポレオン3世は、これを好機と捉え、アロー号事件で参戦を決めたイギリスとともに、10月に清王朝へ侵攻した。

アロー戦争に勝利

 57年12月、イギリス・フランス連合軍が、広州(香港周辺)を占領。翌58年1月、広州総督をインドにあるイギリスの拠点であるカルカッタへ連行した。

 その後、イギリス・フランス連合軍は北上。天津を攻撃。5月、天津の砲台を占領した。北京の清王朝政府は、降伏。6月、天津条約を締結した。

インドシナ出兵

 57年

天津条約

 58年6月、清王朝と天津条約を締結。清王朝にキリスト教の布教の自由を獲得。公使を北京に駐在させることができるようになり。賠償金も獲得した。

日仏通商修好条約

 同6月、日本は、アメリカと日米修好通商条約を締結。

 10月、イギリス・フランスは日本と週交通条約を締結。横浜などで貿易が始まった。

 金と銀の交換比率が違うことから、日本から大量の金がヨーロッパへ流れた。

イタリア統一戦争

サルディーニャ王国との密約

 58年7月、ナポレオン3世は、サルディーニャ王国の宰相であるカブールと会談。イタリア統一戦争の参戦を約束した。

 その見返りに、

スエズ運河建設開始

イタリア統一戦争

 59年7月、ナポレオン3世は、オーストリアと講和。

単独講和

アロー戦争)北京条約

 

文化)文学

 フロベール「ボヴァリー夫人」

 ボードレール「悪の華」

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