前回の復習 1870年代のフランス
1860年代の国際情勢
ナポレオン3世
第二帝政
60年代のフランスは、第二帝政の時代である。ナポレオン3世が活躍した時代であった。
英仏通商条約
ナポレオン3世を支持したのは、フランス革命で領主から開放された農民たちであった。彼らが臨んだのは、工業国のイギリスへの農産物の輸出拡大であった。
50年代のフランスは、イギリスと連携してクリミア戦争、アロー戦争に勝利した。
60年、英仏通商条約を締結。自由貿易を展開していった。この時期、鉄道網が整備された。フランス各地からワインが流通するようになった。自由貿易によって、ワインの輸出が拡大した。
60年代前半、フランス各地に銀行が創立される。
しかし、67年、自由貿易の反動で不況が発生する。
イタリア統一戦争
58年7月、ナポレオン3世は、イタリアの前身であるサルディーニャ王国と軍事同盟を締結した。サルディーニャ王国は、戦争に勝利した際には、イタリア北東部(フランス南西部)のサヴォイアとニースを割譲することを約束した。
59年4月、オーストリア領になっていたイタリア北東部のロンバルディア地方を獲得するために、オーストリアに侵攻した。これがイタリア統一戦争である。
59年7月、ナポレオン3世と単独講和。これにより、サルディーニャ王国も単独で戦争することはできないために停戦。ロンバルディアはサルディーニャに割譲されたが、ヴェネツィアはオーストリア領にのままとなった。
61年、イタリア王国が成立。
第一インターナショナル
労働運動は、48年革命以降、後退していた。57年に恐慌が発生。これにより、労働運動が再び活性化した。
ナポレオン3世は、60年の英仏通商条約締結を受けて、労働組合の結成をみとめた。
63年1月、ロシアの支配を受けていたポーランドで反乱が起こる。これをうけて、国際的な労働組合である第一インターナショナルがロンドンで結成された。
これが、71年のパリ=コミューンにつながる。
パリ万国博覧会
66年、オーストリア=プロイセン戦争に勝利。
翌67年、ナポレオン3世は、第2回パリ万国博覧会を開催。
この頃から、フランスは不況に入る。
海外派兵
メキシコ出兵
メキシコは、48年のアメリカ=メキシコ戦争に敗北。その後、内戦状態になった。
内戦に勝利したフアレスは、外国債の利払いを停止。イギリス・フランス・スペイン連合軍はメキシコへ出兵した。
当時、アメリカは南北戦争の真っ最中のため、メキシコに援軍を送ることはなかった。
イギリスとスペインは、早々に撤兵。最終的にフランスの単独出兵の形になった。
63年、フランス軍は、メキシコシティを陥落。翌64年、フランス軍は、オーストリア皇帝の弟をメキシコ国王に迎える。
南北戦争が終結すると、アメリカがメキシコに援軍を発生。67年、不況による資金不足を理由にフランスもてっぺいする。
アフリカ)スエズ運河
68年、フランスは、エジプトに資金援助してスエズ運河を完成させる。
翌69年、北アフリカのチュニジアが財政破綻。
東南アジア)カンボジア保護国化
フランスは、東アジアでは南ベトナムに拠点をおいていた。
58年、ナポレオン3世は、インドシナに軍隊を派遣した。
アロー戦争で清王朝に勝利。60年に北京条約を締結した。
63年、フランスはカンボジアを保護国にした。カンボジアはベトナム(北ベトナム)とシャム(タイ)の侵攻を度々受けた。これに対抗するために、南ベトナムに進出したフランスの保護国になった。
江戸幕府を支援
58年、日本の江戸幕府が日米修好通商条約を締結。イギリスやフランスもこれに追随。日本との交易が始まる。
イギリスは、薩英戦争等を通じて、幕府に見切りをつけて薩摩藩に接近した。
67年、パリ万国博覧会が開催。徳川政権ははじめて万国博覧会に出展を行う。その時の代表が、将軍慶喜の弟である昭武である。このとき、渋沢栄一も随行している。昭武の訪欧の目的は3つあった。1つ目は、パリ万国博覧会への出展である。2つ目は、ヨーロッパの視察である。そして3つ目は資金調達であった。
当時のヨーロッパは、不況であった。そのため、資金調達に苦慮した。このバリ万国博覧会の最中に大政奉還が行われた。
ちなみに、イギリスは、薩摩藩を出展させた。
普仏戦争
ドイツ統一への道
62年、ビスマルクがプロイセンの首相に就任。
66年、プロイセンは、オーストリアに侵攻。プロセイン=オーストリア戦争である。ナポレオン3世はプロイセン側で参戦。プロイセンが勝利する。
翌67年、プロイセンはドイツの前身である北ドイツ連邦を結成。ルクセンブルクが永世中立国として独立。イタリア王国は、ヴェネツィアを併合。
敗戦国のオーストリアは、オーストリア=ハンガリー二重帝国になった。
バイエルン争奪戦
バイエルンなどの南ドイツは、プロイセンと同様に、オーストリアと対立していた。そのため、オーストリア=プロイセン戦争では、プロイセン側で参戦。
しかし、北ドイツ連邦には参加しなかった。その理由は、宗教の違いである。プロイセンなど北ドイツではルター派(プロテスタント)を信仰していた。一方で、バイエルンなど南ドイツ諸国はローマ=カトリックを信仰していた。
そのため、南ドイツ諸国は、北ドイツ連邦と同盟を結びつつ、同じカトリック国のフランスとも良好な関係を築いていた。
スペインの王位継承問題
スペインは、18世紀初頭のスペイン継承戦争の時代から、スペイン=ブルボン家が統治していた。ただし、ナポレオン戦争期に一時中断。
68年、スペインで9月革命。スペイン=ブルボン家はフランスへ亡命。王位が空位になった。
スペイン貴族は、プロイセン王家(ホーエンツォレルン家)の分家から新しい国王を迎えようとした。ナポレオン3世はこれに反発した。
70年7月、フランス大使がプロイセン国王ヴィルヘルム1背世と交渉したが、決裂した。会談は温和におこなわれたが、プロイセン宰相ビスマルクが改ざん。ナポレオン3世は、この罠にハマり、プロイセンに宣戦布告した。これにより普仏戦争が始まった。ちなみに、ビスマルクが改ざんした事件のことをエムス電報事件という。
普仏戦争へ
70年7月、エムス電報事件をきっかけに普仏戦争が始まる。9月、フランス軍はスダンの戦いで大敗。ナポレオン3世は捕虜になる。退位して亡命。これにより第二帝政が終わる。
イタリア ローマ教皇領を併合
イタリア王国は、プロイセン側で参戦。この戦争で、ローマ教皇領を併合した。
文化)レ=ミゼラブル
62年、フランスの人気作家ユーゴーが「レ=ミゼラブル」を発表した。
レ=ミゼラブルは、フランス革命期を描いた小説である。
当時のユーゴーは、亡命中であった。第二帝政に反発し、武装蜂起を起こそうとしたためである。第二帝政が崩壊すると、フランスに帰国。国民議会の議員になった。