前回の復習 フランス革命
フランスの歴史で最大の出来事であるフランス革命は、18世紀末に起こった。
今回は、フランスでなぜフランス革命が起こったのか?を18世紀なかばに起きた七年戦争からみていきます。
18世紀後半の国際情勢
日本は、江戸時代後期。松平定信の寛政の改革が行われた時代である。
中国は、清王朝の時代。乾隆帝が崩御。四川では白蓮教徒の乱が起こる。
ヨーロッパでは、イギリスで産業革命が始まっていた。
フランス革命前夜
ブルボン朝とルイ16世
フランス革命以前のフランスの王朝は、ブルボン朝である。フランスの王朝交代は、内戦をともなうことが多い。ブルボン朝が成立した16世紀後半は、ユグノー戦争という宗教内戦が起きている。
フランスの歴代王朝は、以下の通りである。
- カロリング朝 9世紀のフランク王国分裂前に成立
- カペー朝 10世紀に成立
- ヴァロワ朝 14世紀の百年戦争で成立
- ブルボン朝 16世紀後半のユグノー戦争で成立
18世紀末のフランス国王は、フランス革命で処刑されたルイ16世で有る。ルイ16世は、アメリカ独立宣言の2年前の76年に即位した。妻は、オーストリアの王女マリー・アントワネットである。
戦争と財政再建
17世紀後半に太陽王ルイ14世が即位すると、王国経費が多くなった。その理由は2つある。
1つは、ヴェルサイユ宮殿の建設である。
もう1つは、度重なる戦争である。17世紀後半から18世紀にかけて、フランスは数多くの戦争を経験した。当時の戦争は、傭兵を使った戦争である。そのため、多くの経費を要した。
しかし、当時は大きな収入源もあった。それが植民地との交易である。ルイ14世は、フランス東インド会社を再建。インドとアメリカに多くの拠点を築いた。
ただ、前国王ルイ15世の時代に入ると、七年戦争に敗北。すべての植民地を失った。これにより、財政危機が本格化した。
財務総監 テュルゴー
ルイ16世は、財政再建のために、経済学者を採用した。それがテュルゴーである。テュルゴーは、ケネーの重農主義政策を採用。様々な改革を実施した。しかし、保守派の反感を買い、76年に罷免。改革は実行されなかった。
ネッケル
テュルゴーの後継についたのが、銀行家のネッケルである。77年に就任。
アメリカ独立戦争の軍事費を、借入で対応。国民の支持を集めた。81年、予算の公表を実施。国民の支持を高めたが、人件費の過大を提示したため、官僚の反感を買い、失脚した。
88年、財政悪化を受けて財務長官に復帰。特権階級である聖職者と貴族に課税をかけようとした。170年ぶりに三部会(国会)を開催。国民人気の高いネッケル対貴族の構図が作られた。これがフランス革命につながる。
天明の大飢きん
フランス革命の原因は、財政難である。太陽王ルイ14世の王室財政の拡大が要因に思えるがそうではない。要因は2つある。1つ目は、植民地の喪失である。七年戦争の敗北で大部分の植民地を失った。王室の財政の大部分は、植民地との交易で支えられていた。これが激減した。2つ目は、戦費の拡大である。18世紀後半だけでも、七年戦争とアメリカ独立戦争がある。
そこに、経済をさらに悪化する事件が起きる。世界規模の凶作である。日本でも、天明の大飢きんで多くの死者を出した。
アメリカ独立戦争
アメリカ独立戦争とは
75年、アメリカ独立戦争が勃発した。当時の人々は、イギリスが勝利すると予測していた。
翌76年7月4日、アメリカ独立宣言を発表。ジェファソンはヨーロッパにわたり、ヨーロッパ各国に支援を求めた。しかし、支援を得ることはなかった。
翌77年、フランスは、国民のアメリカへの渡航を禁止した。しかし、ラ=ファイエットは、これを無視。義勇軍としてアメリカへ渡った。
フランス参戦
77年10月、独立軍がサラトガの戦いに勝利。78年2月、フランスは独立戦争に参戦した。ネッケル財務長官は、この戦費を増税せずに借り入れによって調達した。
パリ条約
83年9月、パリ条約でアメリカ独立戦争が終結した。
この条約で、フランスは、2つの植民地を獲得した。西インド諸島のトバゴと西アフリカのセネガルであった。
自由主義貴族 ラファイエット
ラ=ファイエットは、フランスの貴族である。
2歳のときに、七年戦争で父をなくした。それ以来、反英感情が強かった。
アメリカ独立戦争が始まると、フランス政府は、アメリカへの渡航を禁止した。しかし、反英感情の強いラ=ファイエットは、渡航禁止を無視。義勇軍として独立軍陣営で参戦した。
88年、三部会が招集されると、改革派として参加した。
七年戦争
七年戦争とは
英仏植民地百年戦争
外交革命
パリ条約 すべての海外植民地を放棄
七年戦争後のフランス
63年、パリ条約を締結。
65年、イエズス会を解散
70年、東インド会社を解散した。
74年、ルイ16世が即位