1950年代のフランス 第四共和政の崩壊と左派政権

前回の復習 1960年代のフランス

 1960年代のフランス。ド=ゴール大統領の時代。独自外交を展開し、英米と距離をおいた。ただ、68年の5月革命で退陣した。

1950年代の国際情勢

 1950年代は、第三世界が台頭した時代である。朝鮮戦争、インドシナ戦争や第2次中東戦争の影響になった。これが60年のアフリカの年につながる。

 米ソの関係は、スターリンの死去により、平和共存路線へ向かった。

外交)植民地の抵抗

東アジア)インドシナ戦争

 インドシナ戦争は第二次世界大戦後に始まった。北のベトナム民主共和国と南のベトナム国に分裂した。ベトナム民主共和国では、ソ連と中華人民共和国(北京政府)の支援を受けた。一方で、南のベトナム国はフランスが支援した。50年に朝鮮戦争が勃発。翌51年、アメリカは、フランス軍を支援した。

 54年、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍が敗北。これで休戦。54年7月、ジュネーブ休戦協定が締結された。

 ベトナムは、南北2つに分かれて独立した。北側は、ホーチミンを中心とした社会主義勢力。南は、自由主義勢力になった。南ベトナムで共産主義が反政府運動を展開。南ベトナムが内戦状態になり、ベトナム戦争へ発展していく。

中東・アフリカ)第二次中東戦争とアルジェリアの独立運動

 54年にインドシナ戦争が終わると、第三世界の台頭のうごきは、中東へ移った。

 56年、エジプト革命でナセル大統領が誕生。外国資本をつかって、アスワンハダムを建設。ナセル大統領がソ連に接近するとと、西側諸国は資金提供を取りやめた。ナセル大統領が、新たな資金源を確保するため、スエズ運河の国有化を実施した。

 スエズ運河の株は、イギリスとフランスが保有していた。イギリスとフランスは、イスラエルとともにエジプトへ侵攻した。これが第2次中東戦争(スエズ動乱)である。

 圧倒的な軍事力で、フランス側優勢で戦争が進んだ。しかし、57年、ソ連とアメリカの圧力で停戦。事実上、エジプトの勝利になり、フランスなどは、スエズ運河の国有化を承認した。

 第二次中東戦争は、フランス領アルジェリアに飛び火した。アルジェリアの独立運動が始まった。アルジェリアには、フランスからの移民が多かったので、アルジェリアは独立賛成派と独立反対派の内戦になった。

 アルジェリア内戦の泥沼化と第二次中東戦争の敗北で、第四共和制に批判が集まる。これが、ド=ゴール大統領の第五共和政につながる。

 ド=ゴール大統領は、60年にアフリカ6つの植民地の独立を認める。これがアフリカの年である。

 一方で、フランスからの移民が多いアルジェリアは、2年遅れて62年に独立が認められた。

ヨーロッパ)EU統合への道

 フランスとドイツの対立は、アルザス=ロレーヌ地方の奪い合いの歴史であった。この地方は、石炭と鉄鉱石の産地なので、経済的に重要な地域である。

 第二次世界大戦で、アルザス=ロレーヌ地方は、フランス領になった。

 50年、フランス外相のシューマンがアルザス=ロレーヌ地方の石炭と鉄鉱石の産地の共同管理を提唱した。これで成立したのが、フランス、西ドイツとイタリア、ベネルクス3国の6カ国で成立したヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)である。

 57年、第二次中東戦争に敗北すると、フランス財界は危機感を持つ。フランスなどの6カ国はローマ条約を締結。翌58年、2つの組織が成立した。植民地に変わる新たな経済圏を確保を目的としたEEC(ヨーロッパ経済共同体)と米ソに抵抗できるために設立したEURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)である。

 この3つの組織は、

政治)第四共和政の崩壊

第四共和政とは

社会党政権

クーデターでド=ゴール政権へ

アフリカの年

アルジェリアの独立

アフリカの年

始まりは第2次中東戦争の敗北

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