前回の復習 10世紀のドイツ
10世紀、フランク王国から続くカロリング朝が断絶。東フランク王国は、異民族のザクセン族のオットー1世を国王にした。その権威付けのために
さて、今回は、神聖ローマ帝国の前身であるフランク王国の分裂過程を見ていきます。z今回は、神聖ローマ帝国の前身であるフランク王国の分裂過程を見ていきます。z
メルセン条約
フランク王国の分裂
ヴェルダン条約後、分裂した3国は激しい領土争いを続けた。70年、中部フランクの国王が亡くなると、中部フランクの大部分は東フランク王国と西フランク王国に分割された。
中部フランクとして残ったのは北イタリアの一部であった。このあと、東フランクがドイツへ、西フランクがフランスとなった。
ヴェルダン条約
フランク王国の分裂
14年に、カール大帝がなくなり、40年にはカール大帝の孫の世代に入った。この世代は兄弟仲が悪く、兄が国王になると2人の弟が東側と西側それぞれ独立した。この条約がヴェルダン条約である。
ノルマン人の海賊行為
フランク王国が内乱が発生すると、フランク王国の治安は大いに乱れた。特に北海沿岸では、海賊行為が多発した。その活動を行っていたいのが、ノルマン人である。この海賊行為は8世紀に始まった。これが第二次民族大移動である。
9世紀に入り、フランク王国で内乱が起こると、その動きは活性化した。9世紀半ばには、イングランドを制圧した。
ザクセンの併合
ザクセンは現在もドイツにも州がある。16世紀には、ルターを保護した有力諸侯として登場。14世紀の金印勅書では7選帝侯の1人になった。10世紀には、オットー1世が戴冠を受けて、神聖ローマ帝国の初代皇帝になった。ところで、ザクセン族とはどのような民族であろうか。
ザクセン人は、ドイツ北部に住むゲルマン民族の一派であるう。現在のザクセン州はどいう南東部にあるが、これは9世紀のマジャール人退治で南に領土を拡大したときに得た領地である。
5世紀にはサクソン人の一部がイングランドへ渡った。彼らは、大陸のサクソン人と区別するため、アングロサクソン人と呼ばれた。
大陸に残ったザクセン人は、フランク王国と戦い続けた。8世紀に入ると、ノルマン民族の海賊行為で国力を落していた。9世紀に入るとカール大帝によってフランク王国に併合された。以後、フランク王国の一諸侯になる。
カール大帝の戴冠
00年、ローマ教皇は、カール大帝に戴冠を行った。これにより、ローマ=カトリックは、ビザンツ帝国(東ローマ帝国、東方正教会)から完全に独立し、西ローマ帝国を復活させた。
一方、カール大帝の視点から見ると、カール大帝はゲルマン民族の長となったことを意味した。
この後、ゲルマン人の文化と古代ローマの文化、キリスト教の考え方が融合し、現在のヨーロッパ文化が形成されていく。