16世紀後半のドイツ オーストリア=ハプスブルグ家の創設

 16世紀後半は、日本では戦国時代末期。織田信長や豊臣秀吉が活躍した時代である。国際的にはスペイン全盛の時代であった。

 このころのドイツは、神聖ローマ帝国の時代で、ハプスブルク家が分裂し、オーストリア=ハプスブルグ家が創設された時代である。初期のオーストリア=ハプスブルグ家は、2つの悩みがあった。宗教改革とオスマン帝国である。

ハプスブルク家の分裂

フェルディナント1世

 オーストリアを引き継いだフィルディナント1世とはどのような人物であろうか。

 フェルディナント1世は、神聖ローマ皇帝カール5世の弟である。カール5世は主にスペインで生活をしていた。そのため、オーストリアの統治は、フェルディナント1世が実質行っていた。

 フィルディナント1世は、16世紀前半のウィーン包囲をのりきり、宗教的な違いがあるものの、神聖ローマ帝国の諸侯の信頼も厚かった。そのため、フェルディナンド1世が神聖ローマ皇帝になることはだれの目にも明らかであった。

 その後、神聖ローマ皇帝の地位はフェルディナント1世の一族で継承されていった。これは、18世紀半ばのオーストリア継承戦争まで続いた。その家系は、オーストリア=ハプスブルク家と呼ばれるようになった。

スペインとフェリペ2世

 カール5世のもう一人の後継者はフェリペ2世であった。フェリペ2世はカール5世の子どもであった。

 カール5世は、フェルディナンド1世の後にフェリペ2世に相続させようと思ったのだろうが、オーストリアはフェルディナンド1世の一族であ

るオーストリア=ハプスブルグ家が代々引き継ぐことになった。

 そのため、スペインを統治するフェリペ1世の一族は、スペイン=ハプスブルグ家と呼ばれた。

全盛期のスペイン

アルマダの海戦

ハプスブルグ家は、カトリックの家系である。当時のスペインは、ローマ=カトリックの最大手の国である。

 16世紀後半のスペインの歴史をみていくうえで重要な国が2つある。それは、イングランドとオランダである。イングランドは、独立国であったが、女王メアリは、フェリペ2世と結婚していた。いわば、イングランドとスペインは同盟関係にあった。オランダは、ハプスブルク家の領地であった。スペインとオーストリアに分裂する際に、スペイン領となった。

 イングランドやオランダには、多くのカルヴァン派(プロテスタント)が居住していた。イングランドとオランダでは、カルヴァン派の大幅な弾圧を行っていた。

 この時期の宗教弾圧は、国家の重要な収入源でもあった。その仕組みはこのようなものである。大金持ちを異教徒に仕立て上げる。異教徒とされた大金持ちは、一族まとめて処刑される。彼らの財産は国家が没収する。カルヴァン派の処刑は急速に加速した。それとともに、カルヴァン派でない富裕層も命をまもるためにカルヴァン派を支援するようになった。

 この反発は、イングランドから始まった。58年、イングランドで女王メアリがなくなった。跡を継いだのが、ヴァージンクィーンことエリザベス1世である。フェリペ1世は、同盟関係を維持するためにエリザベス1世に結婚を求めた。しかし、イングランドはこれを拒否した。

 当時のイングランドは、カルヴァン派の弾圧問題もあったが、イタリア戦争の早期講和をしたかった。エリザベス女王が即位すると、フランスと講和した。

 次に、反旗をあげたのがオランダであった。オランダ総督がカルヴァン派の弾圧を拒否した。フェリペ2世は、総督を解任。旧オランダ総督は、スペインに宣戦布告した。68年のオランダ独立戦争の始まりである。イングランドは当然オランダを支援した。

 88年、スペインは海軍をオランダへ差し向けた。当時のスペイン海軍は、レバントの海戦に勝利したことで無敵艦隊と呼ばれていた。それを阻止するため、イングランド海軍は通せんぼをした。これアアルマダの海戦である。アルマダの海戦は、イングランド海軍の勝利に終わった。余談だが、イングランド海軍は当時存在していない。イングランドが海賊を雇ってイングランド海軍としたのである。いわば傭兵であった。

 アルマダの海戦に勝利したイングランドとオランダは、スペインと旧ポルトガルの植民地へ侵攻していった。1600年には、イングランドのアダムスとオランダのヤン=ヨーステンが徳川家康の顧問になったのもこの時期である。アメリカではヴァージニア植民地の建設も始まった。

 オランダ独立戦争はそのあとも継続し、1648年のウェストファリア条約でようやく独立が認められた。

レパントの海戦

 スペインは、オスマン帝国と戦争をしていた。当時のオスマン帝国はフランスと同盟を締結していた。

 38年、スペイン海軍はプレヴェザの海戦でオスマン帝国に敗北。地中海の制海権はオスマン帝国に奪われた。

 71年、スペインはローマ教皇とヴェネツィア共和国とともにオスマン帝国へ侵攻した。レパントの海戦である。スペインはレパントの海戦に勝利した。このことから、スペイン海軍は無敵艦隊と呼ばれた。

 当時のイタリアは、分裂をしていた。南イタリアは、スペインア支配。中部イタリアは、ローマ教皇領であった。北イタリアには多くの共和国があり、その一つがヴェネツィア共和国であった。

 16世紀初頭のヴェネツィア共和国は、地中海交易を独占し多くの富を得ていた。しかし、プレヴェザの海戦の敗北で地中海の制海権をオスマン帝国に奪われると、地中海交易の中心はヴェネツィアからフランスへ移った。

新大陸の統治

 16世紀後半のスペインの最大の収入減は、新大陸であった。その産業の中心は、鉱山開発であった。南米で発見されたポトシ銀山はスペイン王室に多くの富をもたらした。鉱山開発には多くのネイティブアメリカン(インディアン)が使われた。劣悪労働環境で多くのネイティブアメリカンは命を落とした。これにより、新大陸では人口が急減した。そのため、16世紀後半に入ると労働力の不足で銀の流入は激減した。これにより、17世紀の不況の時代へと入っていく。

 一方の、マゼランのおかげで、スペインはアジアにも拠点を置くことができた。それが、フィリピンである。ポトシ銀山の銀を使って、フィリピン経由で東アジアや東南アジアとの交易を開始した。これにより、東アジアでは銀が流通量が増大した。

 フィリピンは、21年に発見されてからしばらく放置されていた。フェリペ2世は64年にスペイン海軍をフィリピンへ派遣。原住民の首長と条約を交わし、正式にスペイン領とした。

 当時、フィリピンには後期倭寇も来ていて、スペインも東アジアの市場に参加することが可能になった。

ポルトガルとアジア

 ポルトガルは、モロッコをめぐり、オスマン帝国と戦争をしていた。国王セヴァスティアンは、この戦争で戦死。ポルトガルは戦争捕虜の奪還のために多額の身代金をオスマン帝国へ支払った。そのため、ポルトガルは財政難になった。その支援を得るため、スペインとの併合を望んだ。

 80年、フェリペ2世はポルトガルを併合した。これにより、フェリペ2世は、アフリカ、東南アジア、東アジアに拠点を持つようになった。これにより、文字通り太陽の沈まぬ国となった。

マドリードの建設

 カール5世は、スペインの拠点をマドリードに置いていた。しかし、カール5世は戦争に忙しく、宮廷を作る余裕はなかった。また、オーストリアへ戻ることも予測されていた。

 61年、フェリペ2世は、マドリードの宮殿建設が始まった。当時のスペイン最大の都市は、スペイン南東部のカタルーニャ地方のバルセロナであった。

イタリア戦争とフランス

 では、最後にスペインとフランスとの関係を見ていこう。16世紀半ば、スペインとフランスはイタリア戦争の真っただ中であった。

 44年、イタリア戦争はくれぴーの和約でスペインの勝利で終結した。57年、フェリペ2世は、イングランド(メアリ1世)とともにフランスへ侵攻。しかし、返り討ちに合う。この戦争で、イングランドは、カレーをフランスへ割譲した。

 59年、メアリ1世が亡くなると、財政難から戦争継続は困難になり、スペイン・イングランドはフランスと講和した。

 フランスは、この後ユグノー戦争の内戦期に突入していく。

ハプスブルグ家の分裂

 56年、カール5世はたいいした。このとき、カール5世は富と権威を分割した。

 富は、息子である若き国王フェリペ2世に、権威は、弟の経験豊富なフェルディナンド1世に相続させた。

 フェルディナンド1世は、神聖ローマ皇帝の地位とハプスブルグ家の旧領土であるオーストリアとその周辺であるチェコ(ベーメン)とハンガリーを相続した。

 フェリペ2世は、スペイン、新大陸(アメリカ)、フィリピン、南イタリア、そしてカール5世の生まれ故郷であるオランダを相続した。

宗教改革とアウグスブルクの和議

 話をドイツ(オーストリア)へ戻そう。当時のドイツは2つの敵を抱えていた。オスマン帝国とルター派諸侯である。

 そのため、フェルディナンド1世は、南ドイツのアウグスブルクで帝国議会を開催。ルター派諸侯と和解した。これをアウクスブルクの和議という。

アウクスブルクの和議は以下のようになった。

  • 諸侯のルター派の信仰を認める。
  • 領民は、諸侯の信仰にしたがう。
  • よって、皇帝の直轄領であるオーストリア、チェコ(ベーメン)、ハンガリーでは、ローマ=カトリックの強制が続く。
  • カルヴァン派は、想定されていない。すなわり、カルヴァン派はまだ容認されていない。

 フス派の多いチェコ(ベーメン)でのカトリックの強制が後のドイツ三十年戦争のきっかけになる。

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